よこい‐しょうなん〔よこゐセウナン〕【横井小楠】
よこいしょうなん 【横井小楠】
横井小楠 よこい しょうなん
熊本生まれ、儒学者・政治思想家。父は熊本藩士。天保14年(1843)頃、実践的朱子学「実学」を提唱し、私塾小楠堂を開く。安政5年(1858)には福井藩主松平慶永(春岳)に政治顧問として招かれ、『国是三論』を著した。文久2年(1862)松平春岳の幕府政事総裁職就任を期に江戸で幕政改革に関与、公武合体運動を推進するが失脚。士籍を剥奪されて熊本に蟄居し、勝海舟、大久保一翁や諸国の志士との交流を続けた。維新後は政府参与に就任するが、保守派の手で暗殺された。
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横井小楠
横井小楠
横井小楠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 05:41 UTC 版)
2009年は横井小楠の生誕200年目にあたり、山崎の業績が見直された。 『横井小楠』著述の動機 何故に医者である私が医者でもない小楠先生の伝を著したのであろうか。この著述に筆を染めた動機は主として徳富蘇峰が之を勧め、且つ請うたのによるが、そのもとは先生が肥後における西洋医学の興隆に大いに力を尽くしたのに基因するのである。(中略)これから小楠先生の生涯について述べるが、私の小著『横井小楠』でも、これに菊版で約千三百頁を要しているから、短い時間ではとても話尽くされぬので、大いに省略することにする。また先生の私生活殊に家庭人としての先生については頗る興味もあり、また大いに教訓になることもあるが、これも割愛し、主として公的生活の一端を話すことにする。(以下略)
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