即決和解(そっけつわかい)
即決和解
即決和解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:16 UTC 版)
「千日デパートビル火災民事訴訟」の記事における「即決和解」の解説
1977年3月19日に和解交渉に向けての覚書締結がおこなわれたものの、被告は賠償金を支払うことに応じなかった。理由は、新ビルへ入店する「主要なテナント(キーテナント)」を巡っての調整が難航していたことと、被告である日本ドリーム観光が自社の責任を認めた形で原告への賠償金支払いを頑なに拒否していたからだった。覚書締結後の約3年間は、和解交渉が双方の代理人の間でまとまり掛けると、代表取締役社長の松尾國三が和解することを拒否し、交渉が元に戻るという繰り返しだった。被告側の代理人が和解に応じるよう社長の松尾を説得したが、松尾が態度を軟化させることはなかった。 千日デパートビルは、解体も営業再開もされずに外壁を金網で囲われた状態でミナミの繁華街に建ち続けていた。千日前商店街を中心にデパートの営業再開を求める声は高まっていた。大阪市会議員やミナミ商店連合会は連名で千日デパート関係者に書簡を送り「我欲によって付近一帯に及ぼす迷惑を考え、原告被告双方が早期に和解し、ミナミ再建のために善処するように切望する」と要望した。このように営業再開に対する社会的、経済的な圧力が強まってきたことから、1980年(昭和55年)1月14日、大阪地裁枚方簡易裁判所において、原告被告双方の間で「即決和解」が成立した。ただし、これは原告側が「被告のビル建て替えについては認める」という限定的な合意に過ぎなかった。記者会見で松和会会長は「和解によってミナミの開発に期待している人々や新ビルの営業再開を望んでいるテナントに対して大きく貢献する。松和会は千日デパートビル火災のような惨事を繰り返さないために努力する」と述べた。また日本ドリーム観光・専務取締役の元千日デパート店長は「長い年月、地域の皆様に迷惑をかけた。新しいミナミの開発に貢献することで恩返ししたい」と述べた。 合意内容は以下のとおりである。 被告は原告に対して2億5,000万円の仮払いをおこなう。 1983年(昭和57年)10月ごろまでにビルを建て替え、営業開始予定とする。 テナントは旧ビルと同じ条件で新ビルに入居でき、入居しない場合は入居権を第三者に譲渡できる。 新ビルは会社の権利義務を継承する流通業界の大手業者に一括して賃貸することができ、各テナントは一括して賃借人の売り場構成およびその営業に関して最大限協力する。 新ビルの賃貸借に関する諸条件等については別途協議して定める。 以上、これらの条件で「原告はビルの取り壊しに応じる」とした。 日本ドリーム観光は、設計が出来上がっていないとしつつも、新しいビルの概要を同時に発表した。 地上8階または9階建て、地下2階または3階 建築面積 約1,100坪(3,630平方メートル) 建築延べ面積 約1万400坪(3万4,320平方メートル) 駐車場 約110台 一部和解につき、引き続き損害賠償額を巡っての裁判は係属されることになった。翌2月から同ビルの解体作業が開始され、ようやく新ビル建設に向けて動き出した。ここまで火災発生から7年半が経過していた。原告が提起していた損害賠償請求訴訟は、中間判決で被告の責任が確定したあと、損害請求額の合計は14億3,466万9,751円であったが、休業損も請求していたので即決和解成立の時点で、その合計は約45億円に達していた。しかしながら原告は「『経済的滅失』および『物理的滅失』を被告と争ってきたが、一部和解が成立したことに鑑み、『社会経済的滅失』を認めることにした」として、損害賠償請求の趣旨を変更した。1980年3月24日、原告は、これまでの訴訟で請求していた物損、休業損、弁護士費用(賃借権部分について)を取り下げ、被告の保安管理義務違反による損害の合計10億1,479万0,439円に請求額を減額した。
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