博愛園の子供たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
菊栄は山のような洗濯に加え、日常生活の監督、勉強の監督、夜間には就寝の監督と夜尿児の取り扱いと、24時間体制の養育を行なっていた。それは決して生易しいものではなく、平成期以降には想像もつかないような過酷な労働であった。 子供たちにも、中には様々な事情を抱えた者たちがいた。1919年(大正8年)に、刑務所に服役中の女性が生んだ少年が入園した。菊栄が優しく迎えようとしても少年は怯え、町中では初めて見る電車に驚いて気絶し、菊栄が抱いて寝ようとしても一向に懐かなかった。菊栄は一計を案じ、髪と着物の色を囚人に似せてみせると、少年はようやく菊栄に懐き始めた。少年は5歳で、出所した母に引き取られたものの、犯罪者の子として辛い日々を送り、母に工場で売られた。後に会社員として務めることができ、休日ごとに母を捜し、貧民街で乞食に落ちぶれている母に再会した。母は更生し、息子に連れられて菊栄のもとを訪れた。この母は息子に救われた恩義を涙ながらに語り、菊栄を涙させた。 盗癖の激しい13歳の少年がいた。この少年は園内のみならず、近隣の家からも盗みを働き、園に苦情が相次いでいた。あるときに菊栄は、少年が箪笥から金を盗もうとしている場を見つけ、少年が「本を買いたい」と言い訳すると、菊栄は叱るどころか、箪笥の中のありったけの金を出して、「買いに行こう」と誘った。数日後、少年は「二度と盗みはしません」と詫び、以降は模範児童に一変した。退園後は商店に勤め、模範店員として店主の信頼を集めるようになった。 5歳のときに継母の仕打ちから逃げ出し、山中に潜み、人里から食料を盗みつつ、野生動物たちと共に7年間にわたって生き続けた少女もいた。菊栄はこの少女と共に入浴し、学問や料理などを教え、彼女を抱いて寝た。少女は後に結婚して8人の子宝に恵まれ、菊栄への恩義から、子供たちに「決して高知に足を向けては寝られん」と言っていた。戦中に高知が爆撃に遭った際は、大量の食料を持って半日がかりで菊栄のもとを訪れた。死の床に就いた後には、病床から起き上がって正座し、高知の方角へ一礼して絶命したと伝えられている。彼女の変貌ぶりに驚いた人々が、菊栄に養育法を尋ねると、菊栄は「〈愛なくして何の教育ぞ〉とはまことに輝く真理でございます。愛と理解こそ人間教育の最も優秀な武器でございます」と答えた。 博愛園の子供らが「孤児、孤児、親無しっ子!」といじめられると、相手の家へ出向いて説諭した。「親と離れ離れでも頑張る偉い子供らぞね。人は皆、平等、同じでしょう」が持論であった。 園内にはイチョウの木があり、菊栄は銀杏の身を拾っては、よく「ここの子供たちは、この実と同じ。汚れた皮をとれば、きれいな心が出てくる」と話していた。
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