北 vs 南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:22 UTC 版)
6世紀、畿内政権の集権化が進むと、当時従属していなかった奥羽越地域(東北地方、新潟県北部・中部)の一帯は征討活動の対象とされた(→蝦夷)。7世紀中盤にかけて、北東北以外の蝦夷の地域は、早々に畿内政権下に組み込まれ、前線基地(柵、鎮守府)と統治機関(国府)が置かれた(当初の多賀城は、国府と鎮守府を兼ねた)。その後、南東北は、北東北に対する畿内政権の征討活動の地盤となり、前線(柵、鎮守府)は北東北に移動して行く。 北東北の蝦夷(俘囚)は、岩手県の北上盆地(奥六郡、日高見国)を中心に、奥羽山脈を挟んで隣接する秋田県の横手盆地にも勢力が存在していた[要出典]。これら内陸系蝦夷(仙道蝦夷)勢力は、表面上俘囚となりながらも独自の勢力を保ち、鎌倉時代に至るまで、「南東北の畿内政権側」対「北東北の俘囚(蝦夷)側」という対立が続いた[要出典]。奈良時代に、畿内政権側の宮城県遠田郡涌谷町(現在の黄金山神社周辺)で、日本で初めて金が発見されると、米と共に金を巡る富の争いが、両勢力の間で始まった[要出典]。前九年の役や後三年の役などを経て、北東北では俘囚長の奥州藤原氏が勢力を伸ばし、金を背景として富を蓄積した。その富により、奥州藤原氏の本拠地たる平泉は、平安京に次ぐ日本第二の都市に発展した[要出典]。奥州藤原氏は南東北側にも攻め込み、北東北(俘囚側)と南東北(畿内政権側)という勢力バランスは崩れて東北地方は統一された[要出典]。 平安末期には、東北の奥州藤原氏、関東の源頼朝、中日本の木曾義仲、西日本の平氏の4つの勢力に日本は分かれたが、頼朝が率いる関東武士勢力が西の勢力を次々と支配下に入れていき、最終的に奥州藤原氏も滅亡し、東北も鎌倉幕府に征討された。
※この「北 vs 南」の解説は、「東北地方の経済史」の解説の一部です。
「北 vs 南」を含む「東北地方の経済史」の記事については、「東北地方の経済史」の概要を参照ください。
- 北 vs 南のページへのリンク