北朝の時代
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登国3年(388年)、北魏の道武帝(在位:398年 - 409年)の親征を受け、庫莫奚は弱洛水の南で大敗し、4部落と馬・牛・羊・豕などの家畜10余万を失った。 それから10数年間、庫莫奚やその他の東夷諸族は次第に勢力を増していったが、北魏が遼海(渤海)を開き、和龍を置くと、東夷諸族は懼れて各々方物を献上した。 文成帝(在位:452年 - 465年)の初め、庫莫奚は北魏に遣使を送って朝貢した。 太和22年(498年)、庫莫奚が定州に入寇したため、北魏は営州・燕州・幽州の兵数千でこれを撃退した。奚が後に帰順すると、毎回入塞して交易することを求めた。 北周の時代、突厥は木汗可汗(在位:553年 - 572年)のもと、柔然を滅ぼして中央ユーラシアを掌握した。その頃、庫莫奚は5つに分裂し、辱紇主部・莫賀弗部・契箇部・木昆部・室得部の5部となっており、突厥に附いて部族ごとに俟斤(イルキン:Irkin)一人が置かれた。なかでも阿薈氏が最豪帥となり、5部は皆その節度を受ける。こうして突厥の傘に入り、隣国の契丹と何度か戦った。
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北朝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 07:37 UTC 版)
北魏の太武帝(在位:423年 - 452年)は詔で万度帰に騎一千を率いさせて亀茲国を攻撃させ、亀茲国は烏羯目提らを遣わして領兵三千で防戦し、万度帰はこれを撃って敗走させ、200余級を斬首し、大いに駝馬(ラクダ)を獲得して帰還した。亀茲国はこの後、毎回遣使を送って朝貢するようになる。 北周の保定元年(561年)、亀茲王は北周に遣使を送って来献した。
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北朝の時代
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疏勒国はすでに仏教を信奉しており、文成帝の末に、疏勒王が北魏に遣使を送って長さ2丈あまりの釈迦牟尼仏袈裟を献上した。文成帝は仏衣であるから、霊験あらたかであることを示そうと、これを猛火の上に置いて焼こうとした。しかし何日たっても燃えないので(おそらくは火浣布で織った袈裟のため)、畏怖しない者はいなかったという。文成帝は北魏の歴代皇帝の中で、初めて仏教を容認した熱心な仏教徒であったため、この袈裟を使って仏の霊異を示し、人々を畏服させる道具とした。 西魏の廃帝2年(553年)、突厥の木汗可汗が柔然を滅ぼして大帝国を築くと、疏勒国は突厥の支配下となり、毎年突厥へ年貢を収めるようになる。
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北朝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 16:18 UTC 版)
北朝から隋代にかけて室韋は5部に分裂する。 南室韋 北室韋 鉢室韋 深末怛室韋 大室韋…室韋の一部となっているが、言葉が通じない。
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