前蜀とは? わかりやすく解説

ぜん‐しょく【前蜀】

読み方:ぜんしょく

中国五代十国の一。907年節度使王建四川(蜀)に建国925年後唐荘宗滅ぼされた。蜀。


前蜀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/15 01:05 UTC 版)

前蜀
907年 - 925年

  前蜀(917年)
公用語 漢語(中国語
首都 成都
皇帝
907年 - 918年 高祖 王建
918年 - 925年後主[注釈 1] 王衍
変遷
から禅譲した後梁に従わず自立 907年
後唐によって滅亡925年
  前蜀(923年頃)

前蜀(ぜんしょく、907年 - 925年)は、中国五代十国時代成都を中心に四川省を支配した国。

歴史

建国者の王建許州舞陽県(現在の河南省漯河市舞陽県)の人で、黄巣の乱の鎮圧に加わって功績を挙げる。その後、の実力者である宦官田令孜の仮子(養子)になり、僖宗が蜀(四川)へ落ち延びる際にこれを救った事で壁州(現在の四川省巴中市通江県刺史となる。

888年には永平節度使となり、891年には成都に拠っていた剣南西川節度使の陳敬瑄と仮父である田令孜を殺して、成都を制圧。更に剣南西川藩鎮を滅ぼして、四川全域をほぼ完全に支配下に置いた。また901年には鳳翔李茂貞岐王)より漢中を奪う。

これにより、903年に唐より蜀王の地位を与えられ、更に907年後梁に唐が滅ぼされると皇帝を名乗った。

蜀は天然の要害であり、周辺からの侵攻の危険が少なく、などの資源を豊富に有して古来より「天府」と呼ばれていた。この平和を求めて多くの文化人・僧などが中原から蜀へ流れてきており、王建も豊かな経済力を背景に文化の保護を行い、木版印刷による儒教仏教経典の出版やこの地での織物の生産などの事業を興した。

しかしその一方で、侵攻の危険性が薄い事から軍隊の目は内部への監視に向いており、尋事団と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺した。

918年に王建が死ぬと王建の実子と仮子の間での相続争いが起き、最終的に王建の末子の王衍が後を継ぐ。

王衍は蜀の経済力に依存して奢侈にふけり、政治は宦官に任せきりで、民衆からは搾取を行った。これにより民心は急速に離反して行き、925年後唐軍が侵攻してくると抵抗する者がおらず、簡単に滅ぼされた。王衍は長安に護送される途中で殺された。

前蜀滅亡後は後唐の武将の孟知祥がこの地の統治を後唐より任ぜられたが、後に独立して後蜀を建てた。

文化

前蜀が保護した文化人として著名な者は、晩唐の代表的詩人の一人と評価される韋荘、後の北宋の画壇に影響を与えた宮廷画家の黄筌(こうせん)、書と画に優れた禅月大師・貫休(ぜんげつだいし・かんきゅう)などがいる。

また成都の郊外には永陵と呼ばれる王建の墓が残っており、その中には王建の棺の周りには24人の奏者と、12人の力士の石彫りがある。この墓は1942年に発見され、現在は一般公開されている。

前蜀の皇帝

代数 廟号 名前 生没年 在位
高祖 王建(おうけん) 光図 847年 - 918年 903年 - 918年
2 後主[注釈 1] 王衍(おうえん) 化源 901年 - 926年 918年 - 925年

前蜀の元号

元号 年数
天復 907年[注釈 2]
武成 908年 - 910年
永平 911年 - 915年
通正 916年
天漢 917年
光天 918年
乾徳 918年 - 924年
咸康 925年

脚注

注釈

  1. ^ a b 廟号はない
  2. ^ 唐の昭宗の元号を使用


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「前蜀」の関連用語

前蜀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



前蜀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの前蜀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS