後晋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 09:22 UTC 版)
後晋(こうしん 936年[2] - 946年[3])は、中国の王朝で、五代の一つである[4]。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす[5]。都は開封[6]。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族に近い部族の王朝である[7]。
注釈
出典
- ^ a b 『旧五代史』では少帝。『新五代史』では出帝。
- ^ a b 愛宕他 (1997)、pp.17-18
- ^ a b 愛宕他 (1997)、p.19
- ^ 愛宕他 (1997)、p.3
- ^ a b 愛宕他 (1997)、p.69
- ^ a b c d e f 愛宕他 (1997)、p.18
- ^ 愛宕他 (1997)、pp.17,70
- ^ a b 愛宕他 (1997)、p.16
- ^ 愛宕他 (1997)、pp.16-17
- ^ a b 愛宕他 (1997)、p.17
- ^ 愛宕他 (1997)、p.21
- ^ 周藤、中嶋 (2004)、pp.120-121,332
- ^ 愛宕他 (1997)、pp.17,21
- ^ 愛宕他 (1997)、p.15
- ^ 愛宕他 (1997)、p.10
- ^ 愛宕他 (1997)、pp.18-19.
- ^ a b 愛宕他 (1997)、pp.19,22
- ^ 愛宕他 (1997)、p.23
- ^ 愛宕他 (1997)、p.17 による。
- ^ 愛宕他 (1997)、p.70
後晋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:16 UTC 版)
李守貞(中国語版)(演:楊樹) 河中護国節度使。後晋の有力武将。一時、契丹に投降するも離反し、河陽の地で独自の勢力を築き上げ、やがて河中の地に拠点を移す。その後、鳳翔節度使・王景崇、永興節度使・趙思綰と連携し、後漢に対して反乱を起こした。当初は白文珂率いる後漢軍と対峙し、戦いを優位に進めていた。だがその後、援軍にやって来た後漢の郭威軍の奇策に嵌められ、最後は自害して果てた。
※この「後晋」の解説は、「大宋伝奇之趙匡胤」の解説の一部です。
「後晋」を含む「大宋伝奇之趙匡胤」の記事については、「大宋伝奇之趙匡胤」の概要を参照ください。
後晋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:50 UTC 版)
高祖(石敬瑭、在位936年 - 942年) 少帝(石重貴、在位942年 - 946年)(出帝とも称する。)
※この「後晋」の解説は、「中国帝王一覧」の解説の一部です。
「後晋」を含む「中国帝王一覧」の記事については、「中国帝王一覧」の概要を参照ください。
後晋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:21 UTC 版)
後晋の元号 天福(936年 - 943年)後に劉知遠が復活させた。( - 948年) 開運(944年 - 946年)
※この「後晋」の解説は、「元号一覧 (中国)」の解説の一部です。
「後晋」を含む「元号一覧 (中国)」の記事については、「元号一覧 (中国)」の概要を参照ください。
- >> 「後晋」を含む用語の索引
- 後晋のページへのリンク