初期:結党と戦争協力
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「フランス社会党 (SFIO)」の記事における「初期:結党と戦争協力」の解説
PSDF・PSFの2党が加盟する第二インターナショナル(労働者インターナショナル)のアムステルダム大会(1904年)は、闘争の効果を上げるため一つの党にまとまることが望ましいと決議(アムステルダム動議)し、ジョレスもこの動議にしたがって、両派の対立の原因となっていた社会主義者による閣内・閣外でのブルジョワ政権への協力を否定する声明をおこなった。これにより2党は翌1905年合同し第二インターナショナル・フランス支部としてのフランス社会党(SFIO)が成立、前年1904年にジョレスによって創刊された『リュマニテ』は党の機関紙となった。 SFIOはマルクス主義の原則を受け入れて改良の党ではなく「階級闘争および革命の党」であることを宣言し、多数派となったゲード派が優位を占めたように見えたが、実際に主導権を握ったのは改良主義路線を採るジョレス派であった。1908年のトゥールーズ党大会では「革命か改良か」をテーマに激しい論戦が交わされ、左のゲード派やヴァイヤン派、革命的サンディカリストたちに配慮し、「プロレタリア解放のための権力掌握」「ゼネストにおける武装」「反乱に頼る権利」などを確認すると同時に、改良と組合運動・議会闘争など合法運動の重要性を謳い、以後ジョレスの改良路線が党内で定着していった。しかし革命的サンディカリストに支配される労働運動との関係は改善されず、SFIOはより広範な市民層の間で支持を拡大し、第一次世界大戦直前には下院に100名に及ぶ議席を有する大政党となった。 また当時迫りつつあった世界戦争の危機に際してジョレスは、戦争は資本主義にその根源を求められるが、プロレタリアートの力によって防止することが可能であると考え、それを第二インターナショナルの運動の力によって実現しようとした。1907年の第二インター・シュトゥットガルト大会では彼によって反戦の動議が提出され、満場一致で可決された。しかしこの問題についてもSFIO内部では微妙な温度差があり、ゲードなどの左派は国際主義を掲げつつも、戦争が資本主義の問題である以上、戦争よりも資本主義に対する闘いを重視すべきであると主張した。開戦直前の1914年7月14日、ジョレスはヴァイヤンとともにSFIO全国大会で戦争阻止のための労働者の国際的ゼネストを行う動議を提出して可決されたが、その直後の7月31日、国家主義者に狙撃され死去した。これにより党は一気に戦争協力へと傾き、8月3日のフランスによる対ドイツ宣戦布告とともに、SFIO議員団は一致して戦時予算・戒厳令などに賛成して戦争協力のための神聖同盟に参加、同月末ゲードら党幹部も戦時内閣に入閣した。
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