初期の古代オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 18:22 UTC 版)
「古代オリンピック」の記事における「初期の古代オリンピック」の解説
地中海周辺の地域には、運動競技の長い伝統があったように記録されている。なぜならば、古代エジプト人と古代メソポタミア人は、王とその貴族の墓に運動競技を描写しているからである。 しかしながら、彼らは定期的な大会を開催していなかったようである。そして、それらのイベントはおそらく王と上級貴族の宮殿の庭で行われたものと推定されている。 ミノア文明は、フレスコ画にブルリーピング、タンブリング、ランニング、レスリング、ボクシングを書き残しており、体操競技を高く評価していたと推定されている。 それに続く、ミケーネ文明は古代ミノア文明の競技を採用し、宗教的儀式において戦車を用いて競いあったようである。ホメロスの語るところの「英雄伝」によれば、死者を称えるために運動競技に参加したと考えられており、その後「イーリアス」においては、戦車レース、ボクシング、レスリング、短距離走のほか、フェンシング、アーチェリー、槍投げの記述がある。 そして、その後に記録された「オデュッセイア」はこれらに走り幅跳びと円盤投げを追加したようである。 古代ギリシアにおいて信じられた直接の起源は、次のようなものである。伝染病の蔓延に困ったエーリス王・イーピトスがアポローン神殿で伺いを立ててみたところ、争いをやめ、競技会を復活せよ、という啓示を得た。イーピトスはこのとおり競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王・リュクールゴスと協定を結んだ。オリュンピアの地に武力を使って入る者は神にそむくものである、というもので、この文字が彫られた金属製の円盤がヘーラーの神殿に捧げられた。この円盤はのちに発見された。ただし円盤は現存しないことと、協定を結んだとされるリュクールゴス王が実在したかどうか不明のため、この由来には疑問視する声もある[要出典]。 こうしてエーリス領地内のオリュンピアで始まったオリンピックだが、最初のうちの記録は残っていない[要出典]。記録に残る最初のオリュンピア祭は、紀元前776年に行われた。古代オリンピックの回数を数えるときには、この大会をもって第1回と数えるのが通例である。勝者はエーリスのコロイボスであった。ただし、さきの円盤の作成年代などから推測して、この古代オリンピックの開始年は、もう少し遡ると考えられている。競技会の行われた季節は麦の刈り入れが終わり、農民が若干暇になるユリウス暦の8月だったと考えられている[要出典]。 最初はエーリスとスパルタの2国のみの参加だったオリュンピア大祭は、正確に4年に一度開催され続け、しだいに参加国も増えてきた。そしてついに全ギリシア諸国が参加するようになった。この大会はギリシア共通で使われる暦の単位にもなった。オリュンピアードという単位で、これはあるオリュンピア大祭が開催されてから次の大祭が開催されるまでの4年間を示す。年を特定するためには「第○○オリュンピアードの第×年」と数える[要出典]。
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