ミノア文明
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ミノア文明(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノス文明とも呼ばれるが、クレタ文明と呼ばれることもある。
注釈
出典
- ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 66ページ
- ^ 石弘之著『歴史を変えた火山噴火ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 65ページ
- ^ 出典 : 小山真人『ヨーロッパ火山紀行』ちくま新書、1997年、33頁
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.78-79
- ^ a b c 周藤 (1997-a)、p.79
- ^ 周藤 (1997-a)、p.84.
- ^ 周藤 (1997-a)、p.80
- ^ a b 周藤 (1997-a)、p.81
- ^ 周藤 (1997-a)、p.82
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.84-85
- ^ a b c d 周藤 (1997-a)、p.87
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.87-88
- ^ a b c 周藤 (1997-a)、p.88
- ^ a b 周藤 (1997-a)、p.89
- ^ 周藤 (1997-a)、p.90
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.91-92
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.92-93
- ^ 周藤 (1997-a)、p.93
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.75-77
- ^ 周藤 (1997-a)、pp.77-78
- ^ 周藤 (1997-a)、p.78
- 1 ミノア文明とは
- 2 ミノア文明の概要
- 3 新宮殿時代
- 4 発掘
- 5 外部リンク
ミノア文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
ミノア文明における再分配システムでは物資の管理を行うために「線文字A」と呼ばれる文字体系が確立された。また、このシステムにより、各種の精巧な工芸品が生まれており、土器もこれまでのカマレス土器に変わって美しいものが生まれ始めた。前1700年から前1500年頃にミノア文明は頂点を迎え、ケア島やミロス島、サントリーニ島などまでその文化圏が及んでいたと考えられ、特に前1628年のサントリーニ島の爆発により埋没したアクロティリはこの時代の情報を多く伝える貴重な存在と化している。 また、このアクロティリには多くのフレスコ画が見つかっており、華やかなミノア文明を現在に伝え、その中でもナイル川を描いたと思われるフレスコ画も発見されており、ミノア文明がエジプトと交流していたことも想像されている。その証拠にエジプトにおいてもクレタ島を起源とする土器が発見されており、新王国時代の墓ではファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の絵も存在する。さらにユーフラテス河畔でも確認されており、ミノア文明の活動範囲がかなり広がっていたと考えられている。 さらに『フライパン』と呼ばれるなべ型の器や『キクラデスの偶像』と呼ばれる大理石の像があるが、これはオリエントにおける多産や豊穣を祈願したものでなく、白い大理石が磨き上げられたものでオリエント文明とは異質な独自の文化を持っていたことが考えられている。
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ミノア文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:35 UTC 版)
クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。 その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。ミノア語はアルファベットとは異なる象形文字を持ち、これを線文字Aと呼ぶ。線文字Aはいまだ解読されていないが、後世に書体が簡略化された線文字Bは1952年、マイケル・ヴェントリスによって、ギリシャ語である事が判明した。またミノア語からはクレタ語と呼ばれる言語が派生したと考えられているが、現在は死語であり、資料も地中海沿岸で発見されたものがわずかにあるだけで、これについて分かっていることは非常に少ない。
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ミノア文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
詳細は「ミノア文明」を参照 クレタ島の青銅器時代はギリシア本土やキュクラデス諸島の青銅器時代と並行しているが、その文化は独立した道を歩んでいる。ギリシア本土や島々で多数発見されるソースボート型土器はクレタ島ではほとんど発見されず、クレタ島で多数見つかるティーポット型土器がクレタ島以外の場所で見つかることも滅多にない。前宮殿時代には海岸沿いの高台などに多くの集落が営まれた。集落の形態に計画性は無く、人々は数世代にわたり用いられた共同墓に葬られた。 前2000年頃に入るとクレタ島の青銅器文化は特筆すべき発展を遂げた。この時期にクレタ島各地に大型の宮殿が登場し始める(古宮殿)。ミノア文明の宮殿はその規模もさることながら、規格化されたプランに特徴がある。現在発見されている宮殿遺構はクノッソス、フェストス、マリア(英語版)、ザクロス(英語版)の4か所と、1990年代にあらたに発見されたガラタスであり、いずれも基本的に同一の構造を持っている。これは当時のクレタ島の人間社会の組織化が進んだことを明確に表しており、膨大な労働力の投入を可能とする階層分化(上に立ったのは、強力な権力を持った王と言うよりは神官団などの役人の集団ではないかとも考えられるが)や政治的統合が進展したものと見られる。宮殿は同時に工房や倉庫でもあり、物資の搬入・搬出を管理する会計の必要によって文字システムが構築された。最も原初的な形態の絵文字は、古代エジプトのヒエログリフに似ていることから、ヒエログリフィク(ヒエログリフ式の)と呼ばれており、ここから線文字Aと呼ばれる文字体系が発達した。これはまだ未解読であるが、会計に使用されたと推定することができ、ギリシア世界で初めての文字体系である。その成立の時期は中期ミノア時代以降であり、前18世紀頃に成立したと見られる。 各地の宮殿は中期ミノアII期の末に一斉に崩壊した。この原因は恐らく地震であると見られ、その後に元々の宮殿を更に拡張した新たな宮殿(新宮殿)が再建された。この新宮殿時代にミノア文明はその絶頂期を迎え、拡大した宮殿の周囲には現代の学者によってヴィラと呼ばれている独立家屋が作られ、グルニアやコモス、パレカストロでは大型の港湾都市が形成された。ミノア文明の影響はケア島やミロス島、サントリーニ島のような周辺の島々にもおよび、サントリーニ島の遺跡アクロティリからは火山で埋没した当時のフレスコ画が発見され、その描写から往時のミノア文明の交易範囲がエジプトまで広がっていたことをよみとることができる。エジプトにおいても第15王朝(ヒュクソス)時代の首都であったアヴァリスの遺跡(テル・アル・ダバア)では、クノッソスなどの遺跡に特徴的な「牛飛び」を描いたフレスコ画が発見されており、パレスチナでも同種のフレスコ画が見つかっている。新王国時代のエジプトの貴族の墓には、ファラオに朝貢するクレタ人(ケフティウ)の姿も描かれており、これらは当時クレタ島のミノア文明を担っていた人々が東地中海各地と交流を持っていたことを示す。 栄華を誇ったミノア文明は、後期ミノアIB期(LMIB)の末に主要都市の多くが崩壊して断絶した。例外的にクノッソスは宮殿の機能が維持され続けたが、その文化はミノア伝来の物から、新たにギリシア本土からもたらされたミケーネ文化(ミュケナイ)の影響が強く見られるものへと変容している。この青銅器時代半ばのミノア文明の衰退と崩壊の原因は多種多様に論じられているが未だ明らかではない。概ねそれは自然災害と外敵の侵入のいずれかに帰せられているが、クレタ島におけるミケーネ文化の普及から、ミケーネ文化の中心地であったギリシア本土からの侵略を想定するのが一般的である。
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ミノア文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/31 06:27 UTC 版)
ギリシアのクレタ島は、小アジア系のクレタ人による海洋文明(ミノア文明・紀元前20世紀~紀元前14世紀)の栄えたことで知られ、未解読の線文字Aの存在が有名である。ここでは下水道につながった木製の便座が見つかっている(水洗式便所)。
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ミノア文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 03:37 UTC 版)
ラブリュスという言葉とそのシンボルは紀元前2千年紀に栄えたミノア文明と密接に関連しており、特にある女神信仰と関係が深い。人間よりも背の高いミノア文明期のラブリュスがいくつか見つかっており、生贄の儀式で使われていたとも言われている。生贄とされたのは雄牛と見られている。ラブリュスのシンボルは、クレタ島のクノッソスの宮殿での青銅器時代の考古発掘で多数見つかっている。クレタ島の考古調査によれば、両刃斧は特に神官が儀式に用いていた。ミノアの宗教的シンボルの中でも両刃斧は最も神聖なものだった。両刃斧を両手で持ったミノアの女性が見つかっており、有力者だった可能性が高いと見られている。 近東や他の地域では、このような斧は男神が持っていることが多く、落雷の象徴とされている。しかしクレタ島ではそれらの地域とは異なり、男神が両刃斧を持つことは決してなく、常に女神とその女性神官が持っていた。 雄牛はゼウスの象徴であり、インド・ヨーロッパ神話によく見られるゼウスや他の雷神が雷を起こすのに使う武器がラブリュスと結び付けられている。例えば北欧神話のトールはミョルニルをふるって雷を起こし、インドラはヴァジュラを好んで使った。同様にゼウスが嵐を起こすのに使ったケラヴノス(Keravnos)はラブリュスまたはペレクスだった。 Blinkenbergは、稲妻などの恐ろしい自然現象は神をなだめる主要な理由だったとして、次のように記している。 多くの点から、両刃斧が稲妻を表したものであることは明らかである。……その信仰はギリシアのテネドス島や小アジア南西部のいくつかの都市で維持され、後に小アジアの雷神(ゼウス・ラブラウンデウス)として歴史に記録された。seal-stone に刻まれた絵には両刃斧と共にジグザグの線が描かれたものがあり、稲妻を表している。 しかしフェミニズム的解釈では(特にマリヤ・ギンブタス)、ラブリュスの形状が実用的な斧よりもチョウに似ているとして、地母神の象徴とする。ロバート・グレーヴスは月の偉大な女神の象徴と解釈し、両側の曲線が満月の満ち欠けを示しているとした。
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