初代人民元の発行とデノミネーション実行
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「人民元」の記事における「初代人民元の発行とデノミネーション実行」の解説
1948年12月1日、当時共産党の支配下にあった石家荘に中国人民銀行が開業、初代人民元紙幣が発行された。額面は1元から最大5万元まで62種類あった。5万元という大きい額面が必要だったのは、建国前のハイパーインフレーションの影響で高い物価上昇率が続いていたからである。当時の責任者(後に初代行長)南漢宸は、「人民幣の発行制度は貴金属及び外貨を基礎とするものではなく、解放区人民の求める穀物・綿布・その他生産手段及び生産によって裏付けられている」と述べ、社会主義経済の円滑な運用によって生み出される信用を基盤とする新たな管理通貨制度の創出を宣言した。この後人民元の開始は思わぬ形で困難を来たした。当初、共産党や中国人民銀行は国共内戦の長期化を予想して現在共産党が把握している華北・華東・西北の辺幣を整理して統一した通貨体系にすることを目標とし、中国人民銀行が発足する以前の同年1月より辺幣の廃止や各辺幣の相互通用措置が行われ、徐々に1元・5元・10元・20元・50元・100元の6種による人民元に切り替える予定であった。ところが、この頃より、共産党軍の攻勢が本格化して予想以上に共産党勢力の拡大が進み、国民政府の金円券の回収問題が浮上してきたのである。そのため、1元・5元などの小額通貨は当面発行を延期(1949年1月に発行開始)して従来の辺幣の維持を迫られることになった。各地の辺幣は1949年1月から回収と人民幣の交換が行われ、1951年11月の新疆省を以ってほぼ完了した。また、金円券の回収も1949年5月の上海占領以後本格化した。また、外貨や金銀は流通が停止され、前者は公定比価で人民元と交換するか、人民銀行の外貨預金にすることが義務付けられ、後者は民間所有こそ許されたものの取引に用いることや輸出は禁じられ、輸入や国内移動も許可制とされた。人民元の開始からほぼ2年で本土における人民元の一本化に成功したのである。だが、内戦とその後の中華人民共和国建設への急展開によって人民元は安定せず、1949年の1年間で物価は75倍となった。だが、1950年3月に中国本土における国民政府軍の抵抗が終了し、また同月に国家財政収支・重要物資需給・国家機関現金収支の3つの平衡を目指す「三平政策」が開始されて価格などの価値基準である折実単位や国民が許可なく一定額以上の現金を保有することを禁じる(余剰分は人民銀行に預金として預けることが許される)現金管理制度などが導入された。これによってインフレーションは収束傾向に向かったが、インフレ以前の価格に戻るには至らず、1950年には1万元、1953年には5万元が発行された。1955年3月に2代目人民元が紙幣が発行された。物価が安定してきたため、新紙幣発行に伴いデノミネーションを実行した。2代目人民元は、初代人民元1万元を2代目人民元1元とする比率で、紙幣の額面も1分(0.01元)から最大10元までとした。デノミネーションにより、国内の物価表記は日中戦争前の1937年に戻った格好となった。
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