内戦と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 23:21 UTC 版)
当時の西ローマ宮廷における最有力者はアウィトゥス帝とマヨリアヌス帝を廃位し、先帝リウィウス・セウェルスを擁立した(リウィウス・セウェルス帝を殺害したとする史料もある)軍務長官(magister militum)リキメルであった。東ローマ宮廷によって指名されたアンテミウス帝は皇女アリピアをリキメルに嫁がせて結びつきを強めたものの、両者の関係は良好なものにはならなかった。リキメルはアンテミウス帝を「つまらぬギリシャ人」(graeculus)と呼び、アンテミウス帝はリキメルを「忘恩の男」と罵った。両者の不和の臨界点はイタリア人の元老院議員でパトリキのロマヌス(英語版)の裁判であり、リキメルの支持者であった彼は470年に反逆罪で告発され、死刑を宣告された。 ロマヌスが処刑されるとリキメルは対ヴァンダル戦のために集めていた6,000人の兵士を引き連れて北へと向かい、メディオラヌム(現在のミラノ)に入った。アンテミウス帝とリキメルの両派は小競り合いを繰り返したがパヴィア司教エピファニウス(英語版)の調停により、1年の休戦に同意した。 472年初頭に内戦は再開し、アンテミウス帝は病人を装って聖ペテロ大聖堂(英語版)への避難を余儀なくされている。東ローマ皇帝レオ1世はオリブリオスを両者の調停のために派遣したが、ヨハンネス・マララスの年代記によれば、同時にレオ1世はオリブリオスを殺害するようアンテミウス帝に使嗾する密書を送っていた。この密書を手に入れたリキメルはオリブリオスに見せた上で、彼が皇帝であると宣言した。 内戦が本格化し、ローマ市民と貴族たちはリキメルの軍に加えて、オドアケル将軍を含む蛮族の軍勢に攻撃されることになった。リキメルはアンテミウス帝をローマ市内に封じ込め、包囲戦は5か月に及んだ。市内に侵入したリキメルの軍はテヴェレ川の船着き場とパラティーノとの分断に成功し、皇帝の支持者たちは飢えに苦しめられた 。 両派ともにガリアに援軍を要請したがブルグント族のガリア軍区長官(Magister militum per Gallias)グンドバト(英語版)は叔父にあたるリキメルの側についた。アンテミウス帝はゴート族のジリメールをガリア総督(Rector Galliarum)に昇格させて、皇帝派の軍隊を率いてローマへ入城させようとした。ジリメールはローマに入城できたが、リキメル軍がアエリュウス橋(英語版)とハドリアヌス帝霊廟(現在のサンタンジェロ城)を通ってテヴェレ川を越え、市内中心部へと突入しようし、これを防ぐ戦いでジリメールは戦死している。 外部からの援軍の望みは絶たれ、食料も欠乏していたアンテミウス帝はなお戦うべく兵を再集結させようとするが、彼の軍隊は敗れ、大勢が殺害された。皇帝は物乞いに変装して聖ペテロ大聖堂(幾つかの史料ではサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂)に逃れたが、ここで捕えられ、472年7月11日にグンドバトまたはリキメルによって斬首された。 リキメルはアンテミウス帝の死から程ない8月18日に急死し、リキメルが擁立したオリブリオス帝もまた10月23日に短い治世を終えている。その後の西ローマ帝国は短命の皇帝の廃立が相次ぎ、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(東ローマ帝国の史料は僭称者としている)が廃位されるのは、アンテミウス帝の死から4年後の476年のことであった。
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