入蜀とは? わかりやすく解説

入蜀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/04/19 15:49 UTC 版)

入蜀(にゅうしょく)




「入蜀」の続きの解説一覧

入蜀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:56 UTC 版)

劉焉」の記事における「入蜀」の解説

霊帝時代政治腐敗黄巾の乱影響により、刺史太守支配力弱体化しているという理由州牧設置し清廉な人物地方派遣することを提案した劉焉内心では中央の混乱避けたい考え交州の牧に任命される事を期待していた。しかし、侍中董扶益州天子気がある密かに告げたため、益州への派遣を望むようになった。 やがて、当時益州刺史の郤倹(郤正祖父)の失政評判となり、并州涼州でも刺史殺害される事態となったため、劉焉提案実現を見る事になった劉焉は自らの希望通り監軍使者益州牧を兼務し陽城侯に封ぜられ、郤倹を取り調べるという名目益州に赴任することになった董扶蜀郡属国都尉として劉焉随行することになり、太倉令巴西趙韙官職辞して劉焉随行したこの頃後漢衰退乗じて馬相・趙祗ら黄巾号する賊徒益州反乱起こしていた。馬相らは綿竹県令の升を殺害し、さらに雒県を陥落させ郤倹を殺害した。さらに蜀郡犍為広漢の三郡を蹂躙した。馬相は天子自称し、その軍勢は五上っていたが、益州従事賈龍は千余人の兵を率いて官民糾合して馬相らを攻撃して敗走させ、この反乱鎮圧していた(馬相の乱)。

※この「入蜀」の解説は、「劉焉」の解説の一部です。
「入蜀」を含む「劉焉」の記事については、「劉焉」の概要を参照ください。


入蜀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)

諸葛亮」の記事における「入蜀」の解説

戦後劉備たちは荊州南部の4郡を占領した。4郡の内の3郡の統治に当たり、ここから税収軍事当てたこの頃諸葛亮並び称され龐統劉備陣営加わった建安16年211年)、益州劉璋より、五斗米道張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者法正張松と謀って、益州支配頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備龐統黄忠法正らを連れて益州攻撃した諸葛亮張飛趙雲劉封とともに長江遡上し、手分けして郡県を平定諸葛亮らは戦うところ全て勝利した『三国志』劉封伝)。郡県の平定終えると劉備合流し共に成都包囲した劉備の入蜀)。 建安19年214年)に益州平定されると、諸葛亮軍師将軍・署左将軍事となる。劉備外征に出る際には常に成都守り兵站支えた。また法正劉巴李厳伊籍とともに蜀の法律である蜀科制定した

※この「入蜀」の解説は、「諸葛亮」の解説の一部です。
「入蜀」を含む「諸葛亮」の記事については、「諸葛亮」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「入蜀」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「入蜀」の関連用語

入蜀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



入蜀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの入蜀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの劉焉 (改訂履歴)、諸葛亮 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS