入蜀
入蜀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:56 UTC 版)
霊帝の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響により、刺史や太守の支配力が弱体化しているという理由で州牧を設置し、清廉な人物を地方に派遣することを提案した。 劉焉は内心では中央の混乱を避けたいと考え、交州の牧に任命される事を期待していた。しかし、侍中の董扶が益州に天子の気があると密かに告げたため、益州への派遣を望むようになった。 やがて、当時の益州刺史の郤倹(郤正の祖父)の失政が評判となり、并州や涼州でも刺史が殺害される事態となったため、劉焉の提案は実現を見る事になった。劉焉は自らの希望通りに監軍使者・益州牧を兼務し、陽城侯に封ぜられ、郤倹を取り調べるという名目で益州に赴任することになった。董扶は蜀郡の属国都尉として劉焉に随行することになり、太倉令で巴西の趙韙も官職を辞して劉焉に随行した。 この頃、後漢の衰退に乗じて馬相・趙祗ら黄巾を号する賊徒が益州で反乱を起こしていた。馬相らは綿竹県令の李升を殺害し、さらに雒県を陥落させ郤倹を殺害した。さらに蜀郡・犍為・広漢の三郡を蹂躙した。馬相は天子を自称し、その軍勢は五桁に上っていたが、益州従事の賈龍は千余人の兵を率いて、官民を糾合して馬相らを攻撃して敗走させ、この反乱を鎮圧していた(馬相の乱)。
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入蜀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)
戦後、劉備たちは荊州南部の4郡を占領した。4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。 建安16年(211年)、益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統、黄忠、法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛、趙雲、劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定。諸葛亮らは戦うところ全てで勝利した(『三国志』劉封伝)。郡県の平定を終えると劉備と合流し共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。 建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また法正、劉巴、李厳、伊籍とともに蜀の法律である蜀科を制定した。
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