伊勢神道の成立と神道界の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)
「鎌倉文化」の記事における「伊勢神道の成立と神道界の動向」の解説
上述した仏教界の動向は、古来の神々に対する信仰にも影響をあたえた。神仏習合がいっそう深まるいっぽう、元寇ののちは石清水八幡宮はじめ各社で敵国調伏の祈祷がなされるなど神国思想の高まりもあって独自の宗教として神道の教理をつくろうという動きがあらわれた。伊勢神宮外宮の神官であった度会家行は、『類聚神祇本源』をあらわして独自の教理を形成し、伊勢神道(度会神道)の基礎を固め、従来の本地垂迹説に対して神道優位の神本仏迹説(反本地垂迹説)を唱えた。後醍醐天皇に仕えた南朝の重臣北畠親房も、伊勢神道の影響を受けている。 東国政権である幕府は、天照大神よりも八幡神を重んじ、王朝国家の側からは反逆者でもあった菅原道真を祀る天満宮(北野社)を崇敬した。さらに、東国の神々である伊豆山神社、三島神社、箱根権現、日光権現などによる独自な祭祀体系の整備をはかった。 神道界の新動向としては、他に、日本史上はじめて村や町など民衆の暮らす場所である地域社会に民間によって神社が建てられたという現象が注目される。これらの神社で祀られる多種多様の神は、当該地域に住む住民たちの守護神であると同時に共同生活における公共性を表象するものであり、やがて神社は共同体の中心として位置づけられるようになっていった。
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