代々幡村の発足と近代化とは? わかりやすく解説

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代々幡村の発足と近代化(明治・大正期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 15:03 UTC 版)

幡ヶ谷」の記事における「代々幡村の発足と近代化(明治・大正期)」の解説

Clip 玉川上水新水路(左下)と淀橋浄水場右側には新宿駅見え江戸時代から甲州街道通じて代々木角筈柏木等の新宿方面地域と関係が深かった幡ヶ谷村1875年、それらの々と共同公立学校である豊水小学校設立する1878年豊島郡一部をもって南豊島郡設立され幡ヶ谷村南豊島郡所属となる。その頃から幡ヶ谷村は南隣の代々木村連合して役場学校設けるなど関係を深めていたが、1888年市制・町村制公布施行される及んで、翌1889年正式に合併して代々幡村となった。このとき、各旧村名であった幡ヶ谷」及び「代々木」は代々幡村大字として残ることになる。1898年村内の大字幡ヶ谷東西に貫くように玉川上水新水路完成し幡ヶ谷水路土手南北分断されることになる。当時玉川上水新水路水質確保のため架橋禁止されていたため、住民本村笹塚にあったトンネル(本村隧道本町隧道笹塚隧道)を使って行き来しなくてはならなくなり多大な不便を被ることになったまた、甲武鉄道等の鉄道の主要ルートか外れたこともあり、明治時代通じて代々幡村江戸時代さながら農村様相呈しており、市街化進んだのは山手線に近い大字代々木東部のみであった。しかし、1913年京王線開通契機人口急増し1915年町制施行し代々幡町となった(代々幡町とともに渋谷区構成した渋谷町千駄ヶ谷町比べると6~8年ほど町制施行遅れた)。1923年関東大震災では、玉川上水新水路土手崩れ町内浸水するなどの被害はあったが、街が地盤固い武蔵野台地上に位置していることが幸いし東京下町地域よりも被害圧倒的に少なかった震災後東京下町地域住人次々と町内移住し、町の宅地化進んだ当時東京市深川区木場から木材を扱う商人多く流入したため、現在でも幡ヶ谷周辺には材木屋多く点在する。 なお、町制施行以前南豊島郡はすでに東多摩郡合併して豊多摩郡となっていたので、幡ヶ谷地域東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷呼ばれていた。字の新設行われ地域内には本村本村北・本村西下町山谷現在の本町該当)、中幡ヶ谷北原・南原(現在の幡ヶ谷該当)、北笹塚・南笹塚現在の笹塚該当)の10個の小字有した

※この「代々幡村の発足と近代化(明治・大正期)」の解説は、「幡ヶ谷」の解説の一部です。
「代々幡村の発足と近代化(明治・大正期)」を含む「幡ヶ谷」の記事については、「幡ヶ谷」の概要を参照ください。

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