予備予選の壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:31 UTC 版)
1989年にターボエンジンが禁止され、全車自然吸気 (NA) エンジンを搭載するレギュレーションが施行された。自動車メーカーが開発していたターボエンジンに比べると、NAエンジンはフォード・コスワース・DFRやジャッドなどのカスタマーエンジンを入手することが比較的容易であり、また、NA化を機に新規参入するエンジンサプライヤーもあった。F1への参入障壁が低くなったため、国際F3000選手権からステップアップしたり、新チームを立ち上げる動きが活発化した。 これらの新チームにとって、予備予選は「最高峰カテゴリのハードル」となった。フリー走行よりも前に行われたため、特にセッティングのデータがない新規参入チームは厳しい戦いを強いられた。また、パドックも予備予選で使用されるものには非常に粗末なものしか宛がわれないなど、予備予選対象チームにはかなりぞんざいな扱いがなされていた。予備予選で敗退すると、グランプリの賑わいを見ることなくサーキットを去らねばならなかった。 コローニやAGS、ユーロブルンといった弱小チームは資金難と予備予選の壁に苦しみ、成績が低迷したまま撤退することになった。また、ライフにいたっては一度も予備予選を突破できずに撤退した。 反対に、スクーデリア・イタリア、オニクス、ラルース、ジョーダンなどは予備予選を危なげなく通過し、決勝でも予備予選免除チームと互角以上に戦い、たびたび入賞を果たし、時には表彰台に昇ることもあった。 1988年-1992年を通して参戦したチームのうち、常に中~上位にあり予備予選とは無縁だったフェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズ、ベネトン、ティレル、予備予選組に回されるのを寸前で回避した経験を持つロータス、マーチ(レイトンハウス)、ミナルディの計8チームは、一度も予備予選を経験していない。 日本関連では、1990年にコローニに搭載されたスバルF12エンジン、1989年にザクスピードに搭載されたヤマハV8エンジンは予備予選落ちを繰り返し、1991年にポルシェV12エンジンが不発に終わったフットワークはポルシェエンジンを諦めDFRに乗せ替えた後半戦は予備予備組に回された。鈴木亜久里はザクスピードに所属した1989年に「シーズン16戦全て予備予選落ち」という不名誉な記録を残している。片山右京もヴェンチュリ時代の1992年モナコグランプリで一度予備予選落ちを経験している。1991年日本グランプリとオーストラリアグランプリではコローニから服部尚貴がエントリーしたが、2戦とも予備予選落ちを喫した。
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