上杉謙信と越中一向一揆の対立とは? わかりやすく解説

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上杉謙信と越中一向一揆の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:10 UTC 版)

尻垂坂の戦い」の記事における「上杉謙信と越中一向一揆の対立」の解説

越中元来加賀越前等、他の北陸道の国と同様、一向一揆強固な勢力を持つ国であった越後の上謙信祖父長尾能景や父・長尾為景は、越中一向一揆激し戦い繰り広げてきた。謙信越後守護代として家督相続し、さらに越後国主になって以降越中一向一揆との対立続いた北信濃川中島において謙信敵対した甲斐武田信玄は、謙信背後牽制するため、加賀一向一揆越中一向一揆扇動した弘治2年1556年8月23日謙信家臣箕冠城主・大熊朝秀信玄通じて謀反起こし一揆勢を率いて越中から越後攻め入ったが、謙信上野家成派遣し、これを破っている。(駒帰戦い永禄3年1560年3月29日謙信は、一揆勢と結び勢力拡大する越中守護代・神保長職を、その居城富山城攻め勝利を収めている。しかし謙信関東出陣し相模北条氏康戦っている間、長職再起して攻勢出た。同5年1562年9月謙信長職増山城攻め降伏させた。 永禄11年1568年)、謙信は、先年家臣団反逆により追放されていた能登守護・畠山義綱復権支援するため、越中侵攻放生津一揆勢と対陣しつつ、3月16日守山城攻撃開始した放生津戦い)。これに対し越中一向一揆頭領である勝興寺安養寺御坊)の顕栄は、加賀一向一揆頭領金沢御坊の坪坂包明(坪坂伯耆守)に、謙信越中侵攻報じ警戒呼びかけた(『勝興寺文書』)。25日謙信家臣揚北衆本庄繁長本国越後反乱起こしたとの知らせ入り本庄繁長の乱)、攻撃中止越後引き返し鎮圧に向かう謙信背後を突くべく、顕栄反撃出ている。なお顕栄息子顕幸も父に従い謙信長年争っていたが、後に大阪石山本願寺籠城加わり織田信長とも戦っている(石山合戦)。 翌・永禄12年1569年)、本庄繁長の乱鎮圧した謙信大軍率いて前年離反し一向一揆結んだ越中守護代・椎名康胤立て籠もる松倉城百日間に渡り攻撃した。しかし越中三大山城数えられる松倉城守り堅く、また関東不穏な情勢もあり落とすことが出来なかった。(松倉城の戦い元亀2年1571年2月から3月にかけて、謙信は28千の大軍率いて越中出兵し、数年渡り頑強に抵抗してきた松倉城落城させた。さらに敵方となっていた富山城新庄城守山城等、多数の城を攻め落とし越中東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢い進撃し椎名康胤や一揆勢を圧倒した

※この「上杉謙信と越中一向一揆の対立」の解説は、「尻垂坂の戦い」の解説の一部です。
「上杉謙信と越中一向一揆の対立」を含む「尻垂坂の戦い」の記事については、「尻垂坂の戦い」の概要を参照ください。

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