上杉謙信と越中一向一揆の対立
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「尻垂坂の戦い」の記事における「上杉謙信と越中一向一揆の対立」の解説
越中は元来、加賀・越前等、他の北陸道の国と同様、一向一揆が強固な勢力を持つ国であった。越後の上杉謙信の祖父・長尾能景や父・長尾為景は、越中一向一揆と激しい戦いを繰り広げてきた。謙信が越後守護代として家督を相続し、さらに越後国主になって以降も越中一向一揆との対立は続いた。北信濃・川中島において謙信と敵対した甲斐の武田信玄は、謙信の背後を牽制するため、加賀一向一揆・越中一向一揆を扇動した。 弘治2年(1556年)8月23日、謙信の家臣、箕冠城主・大熊朝秀は信玄に通じて謀反を起こし、一揆勢を率いて越中から越後へ攻め入ったが、謙信は上野家成を派遣し、これを破っている。(駒帰の戦い) 永禄3年(1560年)3月29日、謙信は、一揆勢と結び勢力を拡大する越中守護代・神保長職を、その居城・富山城に攻め勝利を収めている。しかし謙信が関東へ出陣し、相模の北条氏康と戦っている間、長職は再起して攻勢に出た。同5年(1562年)9月、謙信は長職を増山城に攻め、降伏させた。 永禄11年(1568年)、謙信は、先年家臣団の反逆により追放されていた能登守護・畠山義綱の復権を支援するため、越中へ侵攻。放生津で一揆勢と対陣しつつ、3月16日に守山城へ攻撃を開始した(放生津の戦い)。これに対し、越中一向一揆の頭領である勝興寺(安養寺御坊)の顕栄は、加賀一向一揆の頭領・金沢御坊の坪坂包明(坪坂伯耆守)に、謙信の越中侵攻を報じ、警戒を呼びかけた(『勝興寺文書』)。25日、謙信の家臣で揚北衆の本庄繁長が本国・越後で反乱を起こしたとの知らせが入り(本庄繁長の乱)、攻撃を中止。越後へ引き返し鎮圧に向かう謙信の背後を突くべく、顕栄は反撃に出ている。なお顕栄の息子・顕幸も父に従い謙信と長年争っていたが、後に大阪石山本願寺籠城に加わり織田信長とも戦っている(石山合戦)。 翌・永禄12年(1569年)、本庄繁長の乱を鎮圧した謙信は大軍を率いて、前年に離反し一向一揆と結んだ越中守護代・椎名康胤の立て籠もる松倉城を百日間に渡り攻撃した。しかし越中三大山城に数えられる松倉城の守りは堅く、また関東の不穏な情勢もあり落とすことが出来なかった。(松倉城の戦い) 元亀2年(1571年)2月から3月にかけて、謙信は2万8千の大軍を率いて越中へ出兵し、数年に渡り頑強に抵抗してきた松倉城を落城させた。さらに敵方となっていた富山城・新庄城・守山城等、多数の城を攻め落とし、越中の東部から中部、さらに西部にまで破竹の勢いで進撃し、椎名康胤や一揆勢を圧倒した。
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