上杉謙信の出陣とは? わかりやすく解説

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上杉謙信の出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:10 UTC 版)

尻垂坂の戦い」の記事における「上杉謙信の出陣」の解説

越後にいた謙信は、越中での戦況憂慮7月北条氏政関東上野攻め入ったが、これには養子長尾顕景(後の上景勝率い上田衆上田長尾家軍勢)を派遣することで対処8月6日自身関東への出陣取り止め越中への出陣決意(『歴代古案』)。信濃口には武田軍侵入備えて守備隊配置し10日、自ら約1万の上本隊率いて越中出陣した(『栗林文書』)。18日には新庄山の根着陣先着の上軍と合流したことで大軍となり、兵力一揆軍対抗できるようになった。これにより、富山に陣を張り新庄城攻め立てる杉浦玄任率い一揆勢に対し劣勢挽回し始めた。しかし、謙信9月13日家臣栗林政頼送った書状(『栗林文書』)に「自敵大軍与見申侯と書いている通り、敵の一揆勢は未だ大軍であり、また一向宗信仰する団結力強固な集団であった。さらに謙信後発部隊対し一揆勢の鉄砲注意するよう書状記したように、鉄砲数多く揃えていたため、新庄城での攻防一進一退となった一方の玄任も、謙信着陣対抗して8月20日金沢御坊にいた加賀一向一揆頭領・坪坂包明(坪坂伯耆守)に対し加賀南部二郡(能美郡江沼郡)からの援軍派遣要請している(『寸金雑録』)。31日瑞泉寺顕秀は、この日の夜、銃撃戦があったと坪坂包明に報告しており(『加能古文叢』)、戦い激しさ窺い知れるその後新庄城富山城の間の尻垂坂(現在、この地名残っていない)で両軍激突したとされ(『新庄町史』他)、具体的な戦況(「両軍激突したところから秋霖がひどく降り続出した戦死者流血によって、びや川の流れ真赤染まった云々)を記した文献存在するものの(『戦国合戦事典』他)、野戦舞台尻垂坂であったことは一次史料では裏付けられない唯一天保年間成立とされる越中旧事記』が「尻たれ坂」という地名挙げて「其節合戦の街なり」と記してはいるものの、戦い詳細窺い知れない。また同書には現在、富山市西新庄正願寺前の入会地にある「薄地」について「或說に右尻垂坂合戦の刻越後景虎首実検いたされ直に其所へ穴を掘首を埋め其處石塔を建られし其石塔なりと云ふ」としているものの、2007年富山市埋蔵文化財センターが行なった調査結果、この石地蔵にはこの地で合戦があったとされる元亀3年14年前の弘治4年4月16日という年紀が刻印されていることが確認され尻垂坂の戦いとは何の関係もないことが明らかになっている。 なお、両軍の間で戦闘があったこと自体伝え史料として一揆方の高吉政が坪坂新五郎(坪坂伯耆の子)に戦況報告した9月9日付け書簡がある(『坪坂文書』)。ただし、この書簡では一揆方が大利得た(得大利候)ということになっており、その後の展開と辻褄合わない内容となっている(『坪坂文書』には他にも9月17日9月21日付け上杉謙信退散風聞記した書簡収められている)。 9月17日未明富山城一揆勢は小旗たたんで日宮城方面退去し始める。その晩には、飛騨高原諏訪城主の江馬輝盛謙信要請受けて出陣しており、山浦国清出迎えている(『上杉文書』)。上杉軍神通川越え西進し、翌18日一揆方の滝山城別称富崎城で現・富山市旧婦中町)にも攻撃開始した上杉軍は廻輪(くるわ)を破り実城みじょう)だけにしたため籠城していた水越氏は河田長親役所投降謙信はこれを助命した上で城内焼き払い23日破却している。10月1日富山城落城18日には一揆方の椎名康胤降伏申し出るが、謙信はこれを許さず越後帰国した(『歴代古案』)。

※この「上杉謙信の出陣」の解説は、「尻垂坂の戦い」の解説の一部です。
「上杉謙信の出陣」を含む「尻垂坂の戦い」の記事については、「尻垂坂の戦い」の概要を参照ください。

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