上杉謙信の出陣
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越後にいた謙信は、越中での戦況を憂慮。7月、北条氏政が関東・上野に攻め入ったが、これには養子の長尾顕景(後の上杉景勝)率いる上田衆(上田長尾家の軍勢)を派遣することで対処。8月6日、自身は関東への出陣を取り止め、越中への出陣を決意(『歴代古案』)。信濃口には武田軍の侵入に備えて守備隊を配置し、10日、自ら約1万の上杉軍本隊を率いて越中へ出陣した(『栗林文書』)。18日には新庄の山の根に着陣、先着の上杉軍と合流したことで大軍となり、兵力で一揆軍に対抗できるようになった。これにより、富山に陣を張り新庄城を攻め立てる杉浦玄任率いる一揆勢に対し、劣勢を挽回し始めた。しかし、謙信が9月13日に家臣・栗林政頼へ送った書状(『栗林文書』)に「自敵大軍与見申侯」と書いている通り、敵の一揆勢は未だ大軍であり、また一向宗を信仰する団結力強固な集団であった。さらに謙信が後発部隊に対し、一揆勢の鉄砲に注意するよう書状に記したように、鉄砲を数多く揃えていたため、新庄城での攻防は一進一退となった。一方の玄任も、謙信着陣に対抗して8月20日、金沢御坊にいた加賀一向一揆の頭領・坪坂包明(坪坂伯耆守)に対し、加賀南部二郡(能美郡・江沼郡)からの援軍派遣を要請している(『寸金雑録』)。31日、瑞泉寺顕秀は、この日の夜、銃撃戦があったと坪坂包明に報告しており(『加能越古文叢』)、戦いの激しさが窺い知れる。 その後、新庄城と富山城の間の尻垂坂(現在、この地名は残っていない)で両軍が激突したとされ(『新庄町史』他)、具体的な戦況(「両軍が激突したところから秋霖がひどく降り、続出した戦死者の流血によって、びや川の流れが真赤に染まった」云々)を記した文献も存在するものの(『戦国合戦大事典』他)、野戦の舞台が尻垂坂であったことは一次史料では裏付けられない。唯一、天保年間成立とされる『越中旧事記』が「尻たれ坂」という地名を挙げて「其節合戦の街なり」と記してはいるものの、戦いの詳細は窺い知れない。また同書には現在、富山市西新庄の正願寺前の入会地にある「薄地蔵」について「或說に右尻垂坂合戦の刻越後景虎首実検いたされ直に其所へ穴を掘首を埋め其處に石塔を建られし其石塔なりと云ふ」としているものの、2007年に富山市埋蔵文化財センターが行なった調査の結果、この石地蔵にはこの地で合戦があったとされる元亀3年の14年前の弘治4年4月16日という年紀が刻印されていることが確認され、尻垂坂の戦いとは何の関係もないことが明らかになっている。 なお、両軍の間で戦闘があったこと自体を伝える史料としては一揆方の高桑吉政が坪坂新五郎(坪坂伯耆守の子)に戦況を報告した9月9日付け書簡がある(『坪坂文書』)。ただし、この書簡では一揆方が大利を得た(得大利候)ということになっており、その後の展開と辻褄が合わない内容となっている(『坪坂文書』には他にも9月17日、9月21日付けで上杉謙信退散の風聞を記した書簡が収められている)。 9月17日未明、富山城の一揆勢は小旗をたたんで日宮城方面に退去し始める。その晩には、飛騨高原諏訪城主の江馬輝盛が謙信の要請を受けて出陣しており、山浦国清が出迎えている(『上杉文書』)。上杉軍は神通川を越え西進し、翌18日、一揆方の滝山城(別称・富崎城で現・富山市旧婦中町)にも攻撃を開始した。上杉軍は廻輪(くるわ)を破り実城(みじょう)だけにしたため、籠城していた水越氏は河田長親の役所へ投降。謙信はこれを助命した上で城内を焼き払い、23日に破却している。10月1日、富山城が落城。18日には一揆方の椎名康胤が降伏を申し出るが、謙信はこれを許さず、越後に帰国した(『歴代古案』)。
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