ラオス王国の独立とは? わかりやすく解説

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ラオス王国の独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)

ラオスの歴史」の記事における「ラオス王国の独立」の解説

ラオス王国1949年7月19日フランスとの間に締結されたフランス・ラオス協定名目上独立したが、フランス連合枠内のみに限られ外交・国防決定権フランス持った行政機関軍隊・警察といった政府機整備急がれたが、60年もの植民地支配により、人材確保は困難を極めたまた、植民地時代公用語フランス語一般大衆の話すラーオ語三王時代に独自の発展遂げた発音の違い不足している語彙どのように補うかという難問があり、王国政府1949年11月27日正字法基本方針国語あり方についての検討委員会設立した一方ラオ・イサラ亡命政権は対仏妥協派とベトミン共闘派に分裂した右派スワンナ・プーマ親王らはヴィエンチャン戻りフランス支配下ラオス王国政府参加し、親フランスピブン政権発足させた。一方左派スパーヌウォン親王らは1950年8月、ネーオ・ラーオ・イサラ抗戦政府樹立し、抗仏闘争宣言した1951年にはカンボディアベトナムホー・チ・ミン一派の抗仏組織らと「インドシナ合同民族統一戦線」を結成、対仏ゲリラ闘争開始したベトナムおよびラオスこうした状況から、フランス植民地支配終結判断1953年10月22日ラオス王国は完全独立したラオス王国ではプーマ首相の下、「第一次経済・社会開発五ヶ年計画」が実行移され、国づくりへの取組み本格的に始動した1954年5月8日からインドシナ停戦会議ジュネーヴ開催され、全外国軍隊のラオス王国からの撤退パテート・ラーオ軍の中南部10県からの撤収北部二県への結集、および軍事的中立合意採択された。インドカナダポーランド三国により実行監視を行う団体ICC)が設置された。 また、インドシナ停戦会議にて王国政府パテート・ラーオの間で(1)パテート・ラーオ軍の一部王国政府軍編入する事。(2)パテート・ラーオ北部県の行政パテート・ラーオから王国政府返還する事。(3)パテート・ラーオ政治団体「ネオ・ラーオ・ハクサート」(ラオス愛国戦線、NLHS)を設立改組し、王国政府との連合政府樹立する事。の3点合意された。

※この「ラオス王国の独立」の解説は、「ラオスの歴史」の解説の一部です。
「ラオス王国の独立」を含む「ラオスの歴史」の記事については、「ラオスの歴史」の概要を参照ください。

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