マルハとベイスターズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 06:15 UTC 版)
1880年に父・幾次郎が起こした林兼商店に入社した謙吉は1924年に28歳で常務に就任、終戦前の1945年には大洋漁業の副社長まで出世した。戦後の公職追放で謙吉は大洋漁業の経営から退き、兄の兼市が2代目の社長となった。1952年に公職追放令が解かれると、謙吉は大洋漁業の副社長に復帰した。しかし、1953年に兄の兼市が急死し、大洋漁業の社長に就任した。 謙吉は大洋漁業の社長として1977年に死去するまで24年間にわたって指揮をふるい、1953年には魚肉ハムソーセージを発売し養殖事業に参入、1960年には飼料畜産事業に参入、1964年には塩水港精糖に資本参加して砂糖事業に参入するなど経営の多角化を推し進めた。また、大洋漁業の兄弟会社である大東通商社長も務めたほか、私財を投じて幾徳学園を設立、理事長も務めた。 1953年、兄から大洋漁業を引き継いだ謙吉は、同時に、兼市が創設かつ熱愛した大洋ホエールズのオーナー職も継承する事になった。当初「兄貴が始めた球団だから仕方ない」と、オーナー職に対して非常に消極的であった謙吉だが、ホエールズの川崎移転後は次第にのめりこんで行き、1960年の初優勝以降は球界にその名を轟かす名物オーナーの一人になっていた(最も球団への情熱があったのは兼市で、謙吉は球団創設には消極的だった)。同族経営企業の典型であった大洋漁業社長という立場から、謙吉は球団経営についてもワンマンで選手の起用や監督・コーチの人事など、現場のかなり深いところまで口出しをしていたようである。実際、1960年代中盤までは本業の捕鯨も黄金期であり、「鯨の一頭も余分に獲れば選手の給料は払える」という謙吉が残した最も有名な台詞に、大洋漁業、そして謙吉自身の勢いが象徴されていた。一方選手を家族同然に扱い、よく選手たちを自宅に招待して新鮮な魚介類を一杯振舞った。選手の悩みにも真摯に応え、スランプで28連敗中だった権藤正利に持病の胃下垂の治療のため入院を世話したり、選手の家族の訴えを聞いて、試合に出すように三原脩監督を真剣に説得するなど、その面倒見の良さで尊敬を集めていた。 しかし、1970年代が近づくにつれて捕鯨産業は斜陽化。追い討ちをかけるようにオイルショックや排他的経済水域問題により遠洋漁業が衰退、大洋漁業もその経営に陰りを見せ始める。そんな中でも、謙吉のホエールズに対する想いが衰える事はなかった。謙吉はこのころ閑古鳥の鳴いていた川崎球場に見切りをつけており、横浜へ本拠地を移転させる計画を打ち出し、横浜市の飛鳥田一雄市長(のちに社会党委員長)との間に、新球場建設を条件に本拠地移転をする覚書を交わす。大洋漁業は球団株の45%を西武鉄道社長だった堤義明に出資させ、その資金をもって横浜へフランチャイズ移転する運動を展開した。これが奏功して横浜スタジアムの建設が正式に決定したが、その着工式を目前にして謙吉は世を去る。1977年11月、ホエールズは「来シーズンから横浜に本拠地を移転する」と正式に発表。1978年4月横浜スタジアムが開場し、球団は横浜大洋ホエールズとして再出発を切った。なお、もう一つの悲願である新本社建設工事は横浜移転半年後の11月に完成し、大洋ビルと命名された。 謙吉の死後大洋漁業は次男の中部藤次郎が、ホエールズは兼市の三男で甥の中部新次郎が、幾徳学園は長男の中部謙次郎が、大東通商は三男の中部慶次郎がそれぞれ相続した。目論見を外した堤は、代わりとしてクラウンライターライオンズの買収へと動くことになった。捕鯨産業の衰退がはじまった1980年代、大洋漁業は総合食品会社へと脱皮し、下り坂だった業績を回復させた。 藤次郎の死去から2年後の1989年、慶次郎が大洋漁業社長に就任。この時代マルハはゴルフ場経営や不動産事業にも進出するが、1990年代からのバブル崩壊で経営不振に陥り、再建を余儀なくされる。1992年11月、大洋漁業はCIを導入し翌年にマルハと改称。球団も長年親しまれた(横浜)大洋ホエールズを捨てて、横浜ベイスターズとして生まれ変わることになる。2002年、三男の慶次郎が社長を退任しマルハが保有する球団株式は全て東京放送(現・東京放送ホールディングス)とその関連会社であるBS-i(現・BS-TBS)に売却された。 四男の中部謙はマルハ常務を経て、マルハニチロ副社長を務めたが2009年3月に退任。これにより、中部一族はマルハグループの経営から完全に退いた。
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