フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯
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「フエ」の記事における「フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯」の解説
19世紀のフランス軍による攻撃でフエは被害を受けたが、街の建築物は20世紀半ばまでほぼ保たれていた。しかし、1946年からの第一次インドシナ戦争で皇宮の主要な建物は破壊され、1960年代のベトナム戦争によってフエの建造物は多大な被害を受ける。ベトナム戦争で皇宮の約80%が焼失し、午門、太和殿、顕臨閣といった少数の建物だけが残った。皇宮には弾痕が残り、戦後の復興期には遺跡に使われていた石材を持ち出して家を建て直す住民もいた。 1978年秋に開かれたユネスコ総会で「フエ遺跡救済のための国際運動」プロジェクトが承認されたが、同年12月のベトナム軍のカンボジア侵攻によって、国際世論からの協力は得られなかった。1984年からベトナム政府は文化遺産保護運動を推進し、1988年にフエの建造物群は「歴史的重要性を持つ記念物」に指定された。同1988年12月に日本の東洋史学者・山本達郎は自国の外務省にフエ皇宮の午門の保全状況が危機的な状況にあることを伝え、遺跡の保護を訴えた。当時東南アジア各国の視察を行っていた上智大学アジア文化研究所の文化遺産調査団は外務省の要請を受けて予定を変更し、1989年にベトナムを視察し、遺跡の状況を報告した。調査団の訪問後、ハノイの文化省は政府、ユネスコ、フエ現地の関係者を集めて「フエ遺跡救済のための国際運動」作業部会を開催した。作業部会において、フエ側の出席者からはベトナムの厳しい気候と天災、ベトナム戦争によって遺跡の損傷が進んでいることが報告された。同時に損傷に歯止めをかけるための応急処置、政府と国際社会からの資金援助が提案される。ベトナム政府はフエ一帯が有用な観光資源になりうると考えていたが、予算の不足のために十分な対策は行われなかった。1992年に文化遺産保存日本信託基金を通した多国間援助により、初めて国外からの遺跡の保護・修復への援助が実現した。1993年に、「都市計画と防御機能を備えた首都の好例、19世紀初頭のベトナム封建王朝の権力の象徴」を事由として、「フエの建造物群(フランス語: Complex of Hué Monuments、Ensemble de monuments de Huê)」がユネスコの世界遺産に登録された。世界遺産登録後にフエを訪れるベトナム人観光客の数は大きく増加し、1994年に1,000,000人を超えた。 比較的新しいフエの建造物群には歴史的に高い価値があるとは言い難いという見方、ベトナムの権力者が抱いていた精神文化を象徴する文化遺産として評価する見方がある。考古学的価値がより高いと思われるミーソン聖域よりも先にフエの建造物群が登録されたことと、北部よりも先に中部の文化遺産が登録された点には、ベトナム政府の政治的意向が関与している可能性が指摘されている。
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