フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯とは? わかりやすく解説

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フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:53 UTC 版)

フエ」の記事における「フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯」の解説

19世紀フランス軍による攻撃フエ被害受けたが、街の建築物20世紀半ばまでほぼ保たれていた。しかし、1946年からの第一次インドシナ戦争皇宮主要な建物破壊され1960年代ベトナム戦争によってフエ建造物多大な被害を受けるベトナム戦争皇宮の約80%が焼失し午門太和殿、顕臨閣といった少数建物だけが残った皇宮には弾痕残り戦後の復興期には遺跡使われていた石材持ち出して家を建て直す住民もいた。 1978年秋に開かれたユネスコ総会で「フエ遺跡救済のための国際運動プロジェクト承認されたが、同年12月ベトナム軍カンボジア侵攻によって、国際世論からの協力得られなかった。1984年からベトナム政府文化遺産保護運動推進し1988年フエ建造物群は「歴史的重要性を持つ記念物」に指定された。同1988年12月日本の東洋史学者山本達郎自国外務省フエ皇宮午門保全状況危機的な状況にあることを伝え遺跡保護訴えた当時東南アジア各国視察行っていた上智大学アジア文化研究所の文化遺産調査団外務省要請受けて予定変更し1989年ベトナム視察し遺跡の状況報告した調査団訪問後、ハノイ文化省政府ユネスコフエ現地関係者集めてフエ遺跡救済のための国際運動作業部会開催した作業部会において、フエ側の出席者からはベトナム厳し気候天災ベトナム戦争によって遺跡損傷進んでいることが報告された。同時に損傷歯止めをかけるための応急処置政府国際社会からの資金援助提案されるベトナム政府フエ一帯有用な観光資源になりうると考えていたが、予算の不足のために十分な対策行われなかった。1992年文化遺産保存日本信託基金通した多国間援助により、初め国外からの遺跡保護修復への援助実現した1993年に、「都市計画防御機能備えた首都好例19世紀初頭ベトナム封建王朝権力象徴」を事由として、「フエ建造物群フランス語: Complex of Hué Monuments、Ensemble de monuments de Huê)」がユネスコの世界遺産登録された。世界遺産登録後フエ訪れベトナム人観光客の数は大きく増加し1994年1,000,000人を超えた比較新しフエ建造物群には歴史的に高い価値があるとは言い難いという見方ベトナム権力者抱いていた精神文化象徴する文化遺産として評価する見方がある。考古学的価値がより高いと思われるミーソン聖域よりも先にフエ建造物群登録されたことと、北部よりも先に中部文化遺産登録された点には、ベトナム政府政治的意向関与している可能性指摘されている。

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