ソビエト連邦での形式主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/14 14:55 UTC 版)
「形式主義 (音楽)」の記事における「ソビエト連邦での形式主義」の解説
ソビエト連邦(特にスターリニズムの時代)では「形式主義」という語は当局によって、大衆への訴えかけが不足した音楽と定義された。これはロシア・フォルマリズムとの関わりでマルクス主義文学理論から借用された文学用語である。「形式主義者」と告発されることは、簡明さやソ連国家への称賛を犠牲にして形式に傾斜した音楽家との烙印を押されることであった。 ドミートリイ・ショスタコーヴィチは2度にわたって形式主義者のレッテルをはられた。1度目は1936年1月、共産党機関紙「プラウダ」でモスクワで上演されていた彼のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が批判を受けたことである(プラウダ批判)。彼はモダニズム色の濃い『交響曲第4番』を初演前に撤回し、社会主義リアリズムに沿った『交響曲第5番』を「批判への応答」として作曲した。 2度目は1948年2月のジダーノフ批判である。このときはショスタコーヴィチとともにセルゲイ・プロコフィエフ、アラム・ハチャトゥリアン、ヴィッサリオン・シェバリーン、ガヴリイル・ポポーフ、ニコライ・ミャスコフスキーなどのソ連の主要な作曲家たちが形式主義者とされた。 このような形式主義者への弾圧はソ連だけにはとどまらなかった。例えば第二次世界大戦後のポーランドではスターリニスト政権が作曲家に社会主義リアリズムを要求し、従わなかったヴィトルト・ルトスワフスキやアンジェイ・パヌフニクは形式主義者のレッテルをはられ、作品の出版と上演が禁止された。他の東側諸国でも同様の状況で、コダーイ・ゾルターンはパヌフニクにハンガリーにも同じ問題があると不満を述べている。
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