ヴィトルト・ルトスワフスキ
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ヴィトルト・ロマン・ルトスワフスキ(ポーランド語: Witold Roman Lutosławski [ˈvitɔlt lutɔsˈwafskʲi], 1913年1月25日 - 1994年2月7日)は、ポーランドの作曲家、ピアニスト[1][2]。ヴィトルド・ルトスワフスキとも呼ばれ、ポーランド楽派の黎明期に活躍した。
- ^ “Lutosławski’s ‘didlumdi, didlumdaj’”. onpolishmusic.com. 2019年4月2日閲覧。
- ^ “Witold Lutosławski on himself in 1993”. greatcomposers.nifc.pl. 2019年4月2日閲覧。
- ^ “Lutosławski, 'Akcja', and the Poetics of Musical Plot”. www.jstor.org. 2019年4月2日閲覧。
- 1 ヴィトルト・ルトスワフスキとは
- 2 ヴィトルト・ルトスワフスキの概要
- 3 主要作品
- 4 受賞歴
ヴィトルト・ルトスワフスキ
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「ポーランドの現代音楽」の記事における「ヴィトルト・ルトスワフスキ」の解説
スターリン批判を率先して行った最初のポーランドの作曲家がヴィトルト・ルトスワフスキである。彼の「葬送音楽」(1954-1958年)は西側の前衛音楽への興味が最初に現れ、また公的に発表を許された最初期の作品である。ルトスワフスキは既に第二次世界大戦前から創作活動を行い、2台ピアノのための「パガニーニの主題による変奏曲」(1941年)完成時には新古典主義的な独自の書法を完成させていた。この作品はアンジェイ・パヌフニクと作曲者自身のピアノで披露されている。彼はジョン・ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(1958年)を聞き、作曲観が180度回転するほどの大ショックを受け、新しい個人様式への渇望を感じるようになったという。 彼の個人様式を語る上で欠かせないのが「ad lib.動律」である。作品は五線譜上に通常の定量記譜法で書かれるが、「パート同士の縦の線を合わす必要はない」とされ、指揮者は入りの瞬間のみを提示し、柔軟性に富んだテクスチュアが展開される。この時期の「ヴェネチアの遊び」、「オーケストラの書」、「チェロ協奏曲」などにこの作風は強く現れている。しかし、1970年代以降ルトスワフスキはセミクラシック的な作風を濃くしてゆく。 また戦後、ポーランドで作曲家のホープとされたのはアルトゥール・マラフスキとグラジナ・バツェヴィチであったが、マラフスキが1957年に早逝し、バツェーヴィチがその位置に立つ形となる。彼女の作風は、前衛イディオムを新古典主義への注釈として用いられている。 ポーランド楽派を語る上で欠かせない、音楽史上の契機はヤニス・クセナキスのデビュー(1954年)である。オーケストラを駆使して生まれる激しいグリッサンド運動、トーン・クラスターの暴力性、数学理論を援用した彼は、一躍時代の寵児となった。賛否両論が渦巻く中、この音響美を積極的に取り入れた作曲家が、次々とポーランドから現れる。
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固有名詞の分類
近現代音楽の作曲家 | ジョン・タヴナー ポーリーン・オリヴェロス ヴィトルト・ルトスワフスキ コーネリアス・カーデュー ウィリアム・クラフト |
現代音楽の作曲家 | シュラミト・ラン ジョン・タヴナー ヴィトルト・ルトスワフスキ クロード・ヴィヴィエ コーネリアス・カーデュー |
ポーランドの作曲家 | カール・ミクリ ボレスワフ・シャベルスキ ヴィトルト・ルトスワフスキ アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ モイセイ・ヴァインベルク |
ポーランドの指揮者 | クシシュトフ・ペンデレツキ ヤツェク・カスプシク グジェゴシュ・フィテルベルク ヴィトルト・ルトスワフスキ イェジー・マクシミウク |
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