スポーツ人として
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猿丸はもともと柔道や相撲といった格闘技が専門であった。本人によれば「中学時代柔道で名を売っていた」といい、同志社予科入学後は柔道部に加入した。20歳(大学1年)で柔道四段となり、当時は最も若い四段と呼ばれたという。同志社の道場で稽古をしていた相撲部から声をかけられて学生相撲の試合に出るようになり、1926年(大正15年)には第8回全国大学専門学校学生相撲大会で学生横綱となる。 体力を見込まれて陸上部からも声がかかる。1921年(大正10年)に第1回関西学生対校選手権大会に登場し、砲丸投(9m44)、ハンマー投(24m5)で初代王者となる。1922年の第2回関西学生対校選手権大会ではハンマー投げで日本記録(31m30)をマークして2連覇。この年には日本選手権大会でも砲丸投で優勝。1923年(大正12)年の第3回関西学生対校選手権大会は砲丸投げで2回目の優勝を果たす。同年、砲丸投で日本記録(11m57)をマーク。ハンマー投げは、1922年の関西学生対校以来1926(大正15)年まで合計5回日本記録を塗り替えており、1926年5月30日の第2回京大対同志社大戦で40m87の記録を出し(これが最後の日本記録更新となった)、日本人として初めて40mを投げた選手となった。このほか、極東選手権競技大会にも参加している。 1924年パリオリンピックの投擲競技出場に向けての猛練習中に故障し、予選にも参加できなくなった。猿丸はどうしてもパリオリンピックを見たいとして、大学に休学届を出し、新聞社と交渉して特派員の肩書を得てフランスに渡航した。オリンピック観戦のみならず、フランスでは陸軍士官学校で柔道の模範演技をしたといい、イギリスやカナダを経由して帰国した。 このほか、ラグビーやボクシングにも参加したという。 競技引退後、兵庫陸上競技協会で要職に在り、1936年(昭和11年)から1945年(昭和20年)まで副会長、1946年(昭和21年)から1951年(昭和26年)までの会長を務めた。ほか、兵庫陸上競歩協会会長、芦屋市体育協会会長なども務めている。1962年(昭和37年)に日本に伝わったローンボウルズに接した猿丸は、生涯スポーツとして普及に取り組み指導に当たった。
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スポーツ人として
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学習院高等科在学中には、1913年(大正2年)に始まったばかりの日本陸上競技選手権大会を走高跳で2連覇する成績(当時の日本記録でもあった)を残している。 京都帝国大学在学中にはスケート界で活躍し、1920年には河久保子朗らとともに日本初のフィギュアスケート研究団体である「日本スケート会」を結成した。1929年(昭和4年)に大日本スケート競技連盟(現在の日本スケート連盟)が発足すると、会長を務めた。
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