スウェーデンに亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「スウェーデンに亡命」の解説
そして翌1940年4月8日にカルロータから妊娠を打ち明けられ、また初めてノルウェーで自著を刊行したその日の次の早朝、ドイツ軍がノルウェーとデンマークに侵攻した。ノルウェーがドイツ軍に占領されたとき、ブラントは捕虜になるが、ノルウェー軍の軍服を着て正体がばれずに6月には釈放されて、スウェーデンに向かった。しばらくしてまたもう一度オスロに戻るが1941年の初めにストックホルムに滞在し、5月にオスロからスウェーデンに来たカルロータと結婚した。この時に彼が所持していた身分証明書は本来の「フラーム」の名前であったので、カルロータと「フラーム」の姓でストックホルムで暮らし、同年10月30日に女の子を出産してニーニャと名付けた。しかしカルロータとの結婚生活はわずか2年で破局で終わった。 スウェーデンは中立国の立場であったが公安警察はたびたびブラントを逮捕・拘留した。ただロンドンに移ったノルウェーの亡命政府が彼の国民証明書を交付して、スウェーデンでは彼はノルウェー人として認められて国内での活動は比較的自由に出来てジャーナリストとして記事を書き、4冊の著書も書いた。1941年6月22日にドイツは突然ソ連を急襲し、ドイツ人亡命者の状況も根本的に変化した。そしてこの当時の中立国の首都ストックホルムは世界各国の秘密諜報機関の暗躍の場であり、ブラントはノルウェーの友人からの情報をソ連、イギリス、アメリカの情報機関に情報提供したりしていた。 1941年10月9日にブラントは亡命SPD(ナチスに活動禁止を命じられた社会民主党が当初はプラハに、そしてその後にパリに移っていた)に加入することを明らかにした。この時にアメリカに亡命していたドイツ社会主義労働者党(SAP)のメンバーは驚き、党首のヤーコプ・ヴァルヒャーも「面目を潰されるような一撃」と受け取った。 この亡命先でユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと再会し、彼とは1942年9月に「民主主義的社会主義者たちの国際的グループ」(小さなインターナショナル)という国際的な集まりのサークルに一緒に参加している。このグループからは戦後に他の国で大臣、議員、外交官として活躍した人もいて、そのうちヴィリー・ブラントとブルーノ・クライスキーはほぼ同時期に西ドイツとオーストリアの首相を務めている。この二人は終生の友となった。 1943年のブラントの30歳の誕生日の折りにノルウェー人のルート・ベルガウストという既婚女性と知り合った。ブラントより8歳年下でストックホルムのノルウェー大使館の報道部門に勤めていて、どちらも既婚(ブラントはこの時まだカルロータとは離婚していなかった)であったが、1944年夏頃には頻繁に会う仲となった。 1945年4月30日、ヒトラーが自殺して、5月8日にナチスドイツは無条件降伏した。ドイツ自身の未来はまだ何も分からない状態であった。
※この「スウェーデンに亡命」の解説は、「ヴィリー・ブラント」の解説の一部です。
「スウェーデンに亡命」を含む「ヴィリー・ブラント」の記事については、「ヴィリー・ブラント」の概要を参照ください。
- スウェーデンに亡命のページへのリンク