ジョン "ザ・ヤンガー" ケズウィックとは? わかりやすく解説

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ジョン "ザ・ヤンガー" ケズウィック (1906–1982)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 15:43 UTC 版)

ケズウィック家」の記事における「ジョン "ザ・ヤンガー" ケズウィック (1906–1982)」の解説

1929年上海到着ジャーディン・マセソン商会上海支店中国本店)で働く。1930年代同盟通信社共同通信社前身上海支局長時代の松本重治出会っている。松本は、ジョン・ケズウィックの人脈頼り英国紳士集う上海クラブ」に入会している。後に、松本招き樺山愛輔白洲次郎の妻・正子の父)もゲストとして招かれている。 太平洋戦争始まり米国原爆をも視野入れた満州爆撃計画したとき、経済的損失恐れたジョン・ケズウィックは英国爆撃中止のためのロビー活動を展開。当時クレメント・アトリー首相労働党)をワシントン飛ばせ爆撃中止実現させた。戦況悪化していた時期は、セイロンスリランカ)に逃れた1949年中華人民共和国の建国後は拠点香港に移す。中国大陸支店網はすべて1954年接収閉鎖され2000ドル損失を被る。 1952年香港政庁の非官守(官職議員就任1953年会長職を辞任した後、1956年マセソン社に加わる。また、1963年に「英中貿易協会」(SBTC)会長就任(~1973年)し、共産主義国となった中国との貿易再開奔走する1972年に英中の外交関係が完全に正常化し、1973年周恩来首相北京会談英国産業技術展も開催され周恩来視察訪れる。1970年から1972年まで、ジャーディン・マセソン代表権のない会長職を務めた。これらの功績により1973年聖マイケル・聖ジョージ勲章授かりサー称号得た戦時中英国政府諜報業務担っていたという説もある。日本と戦う中国支援目的で、英国特殊作戦執行部 (SOE)の中国での活動指揮して巨大なスパイ網を展開していたという。 一人娘マーガレット(19411995)はアメリカ人建築家チャールズ・ジェンクス結婚し中国庭園ジャーディン・マセソン商会歴史など執筆した

※この「ジョン "ザ・ヤンガー" ケズウィック (1906–1982)」の解説は、「ケズウィック家」の解説の一部です。
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