ジョン "ザ・ヤンガー" ケズウィック (1906–1982)
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1929年、上海に到着。ジャーディン・マセソン商会上海支店(中国本店)で働く。1930年代、同盟通信社(共同通信社の前身)上海支局長時代の松本重治に出会っている。松本は、ジョン・ケズウィックの人脈を頼りに英国紳士が集う「上海クラブ」に入会している。後に、松本の招きで樺山愛輔(白洲次郎の妻・正子の父)もゲストとして招かれている。 太平洋戦争が始まり、米国が原爆をも視野に入れた満州爆撃を計画したとき、経済的損失を恐れたジョン・ケズウィックは英国で爆撃中止のためのロビー活動を展開。当時のクレメント・アトリー首相(労働党)をワシントンに飛ばせ、爆撃中止を実現させた。戦況が悪化していた時期は、セイロン(スリランカ)に逃れた。 1949年、中華人民共和国の建国後は拠点を香港に移す。中国大陸の支店網はすべて1954年に接収・閉鎖され、2000万ドルの損失を被る。 1952年、香港政庁の非官守(官職)議員に就任。1953年に会長職を辞任した後、1956年にマセソン社に加わる。また、1963年に「英中貿易協会」(SBTC)会長に就任(~1973年)し、共産主義国となった中国との貿易再開に奔走する。1972年に英中の外交関係が完全に正常化し、1973年に周恩来首相と北京で会談。英国産業技術展も開催され、周恩来も視察に訪れる。1970年から1972年まで、ジャーディン・マセソンで代表権のない会長職を務めた。これらの功績により1973年に聖マイケル・聖ジョージ勲章を授かり、サーの称号を得た。 戦時中、英国政府の諜報業務を担っていたという説もある。日本と戦う中国の支援が目的で、英国特殊作戦執行部 (SOE)の中国での活動を指揮して、巨大なスパイ網を展開していたという。 一人娘のマーガレット(1941–1995)はアメリカ人建築家チャールズ・ジェンクスと結婚し、中国庭園やジャーディン・マセソン商会の歴史などを執筆した。
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