コンスルとラーテナウ暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 17:06 UTC 版)
「エルンスト・フォン・ザロモン」の記事における「コンスルとラーテナウ暗殺」の解説
オーバーシュレージェンでの闘いの勝利を目の前にして、またしてもザロモン達は「背後短剣」に似た感情を味わうことになった。西欧の要求に屈服したドイツ政府がオーデル湖畔に展開していた彼らを抑留しフランス軍が行動を停止した彼らを尻目に勝手に町を占領し、町はそのままフランス軍からポーランド人に明け渡されてしまったからである。こうして、政府に対する憎しみの感情を一層募らせたザロモン達は 「裏切り者にはフェーメ (Feme)(中世の秘密裁判)を!」 の合言葉に呪縛されてゆく。 ザロモンはその後、旧エアハルト旅団のメンバー達によって構成された「コンスル」と関わりをもち、再び地下活動に入る。ザロモンの証言によれば、コンスルは組織だったものではなく旅団の旧将兵からなる曖昧な集団で彼らはエアハルトを個人的に頼り、ミュンヘンにあるエアハルト指令部から下される命令を実行した。しかし、実際の命令と彼らの行動の間にしばしば混乱が生まれるという極めて危険な雰囲気がコンスルのなかにはあった。 コンスルが実行した外相ヴァルター・ラーテナウの暗殺に19歳のザロモンは関係した。実行部隊のリーダー格のエルヴィン・ケルンは24歳、もう一人のハルトムート・プラースは21歳だった。見張り役だったザロモンはこの件で5年の禁錮刑となる。この時の体験をもとに描いた『追放された者たち』 (Die Geächteten) がザロモンの作家としての第一歩となる。 ヴェルサイユ条約の履行政策を進めるラーテナウは右翼のみならず殆ど全国民の憎悪の的とされていた。ザロモンの証言によるとエアハルトはこの計画に関知しておらず。暗殺直後、警察の追求の目を逃れてザロモンが、海軍髭を剃り落とし麦わら帽子に市民服姿のエアハルトをこっそり訪れて一件を報告したとき、当時合法路線に転向し、バイエルンでの様々の右翼団体と組んでバイエルンの「自警団」化に奔走していたエアハルトは、自分の努力に水をさすようなラーテナウ暗殺のこの暴挙に激怒し、ザロモンに向って「帝国海軍だったら、私はたちどころに三回貴様を縛って船底を潜らせる海軍刑(Kielholen)に処するところだ!」と怒鳴った。 こうして共犯として逮捕された彼は、仲間たちのレジスタンスの模様も、1923年11月のミュンヘン一揆も、1925年のヒンデンブルク大統領の就任も、多年に渡る刑務所の中で耳にする。 1927年、ワイマール共和国は既に安定期に入り、ザロモンも今や闘争の時代が終わったものと実感していたが、1929年には、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの農民一揆(Landvolkbewegung (Schleswig-Holstein)に兄(Bruno von Salomon)と共に参加し、再び拘禁、釈放された。
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