コネチカット植民地
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注釈
- ^ 「ポタッシュ」とは水溶性のカリウムを含む塩類で、採掘したままもしくは加工品を指す。名称の由来は産業革命以前、カリウムの元となるアルカリを得る手法にさかのぼり、鍋に入れた木や植物の灰(ポットのアッシュ)。
出典
- ^ Purvis, Thomas L. (1999). Balkin, Richard. ed. Colonial America to 1763. New York: Facts on File. pp. 128–129. ISBN 978-0816025275
- ^ Purvis, Thomas L. (1995). Balkin, Richard. ed. Revolutionary America 1763 to 1800. New York: Facts on File. p. 147
- ^ (pdf) Colonial and Pre-Federal Statistics. United States Census Bureau. p. 1168. ISBN 978-0816025282.
- ^ Cohn, Henry S.. Connecticut Colonial History 1636-1776. Connecticut State Library
- ^ Daniels (1980)
- ^ Nutting (2000)
- ^ Smith (2007)
- ^ Barack & Lefter (1958)
- 1 コネチカット植民地とは
- 2 コネチカット植民地の概要
- 3 歴史
- 4 経済
- 5 脚注
- 6 外部リンク
コネチカット植民地
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「ジョン・ヘインズ」の記事における「コネチカット植民地」の解説
1635年、マサチューセッツ植民地では宗教観による分裂が大きくなり始めていた。アン・ハッチンソンなどが無律法主義の見解を訴え、イングランド国教会の法はそれを容れず、また律法主義の立場に反論する者もいた。この議論に対しての厳しい反応がフッカーの判断に影響した可能性があり、その結果ヘインズはマサチューセッツを去って、コネチカット川沿岸の新しい開拓地に向かうことになった。歴史家達はこの移住の理由として土地と食料の不足も挙げており、またヘインズとウィンスロップの間の政治的競合も挙げていた。ウィンスロップは、フッカーの仲間が「彼等の移住したいという強い意向によって」動かされていたと記した。 ヘインズはフッカーに従うための手配をしながら、1636年を通じて、補佐官を務め、また植民地民兵連隊の1つの隊長を務めるなど、マサチューセッツとの関わりを続けていた。その副隊長はロジャー・ハーラケンデンであり、1635年にイングランドから妹のメイベルと共に渡って来ていた。ジョンは1636年にメイベルと結婚し、5人の子供をもうけた。 ヘインズは1637年にハートフォードと呼んだ開拓地でフッカーと合流した。この川沿いの植民地は如何なる種類の王室勅許もなく設立されており、マサチューセッツ湾植民地の領域内にはなかった。最初の2年間、幾つかの小さな開拓地がヘインズを長とする執政官議会によって統治され、続いていたピクォート族との争いに捉われていた可能性が強い。1638年後半に戦争が終わった後、執政官は統治の原理と法を記した文書を書き始めた。これが1638年1月に批准された。現在それはコネチカット基本規則と呼ばれ、「最初の成文化憲法」と言われている。その主たる推進者はルドローであり、ヘインズとトマス・フッカーは文書に盛り込まれた自由に関する条項の提唱者だったとされている。 この憲法に盛り込まれた条件に従い、選挙が1639年4月11日に行われ、ヘインズが初代総督に選出された。この憲法では連続した任期を務めることを禁じていたので、1639年から死ぬ1654年まで1期おきに総督に選ばれ、合計8期を務めることになった。総督でなかった年は副総督になっていた。 ヘインズが植民地の政治でどのような役割を担ったかについては、詳細な資料がないので、正確には分かっていない。顕著な成果の1つは、近隣の植民地の幾つかと交渉し、1643年にニューイングランド連合を創設したことだった。この組織は、コネチカット、マサチューセッツ湾、ニューヘイブン、プリマス各植民地の緩い連合であり、主に共通の脅威に対して共同して防衛にあたることだった。コネチカットにとって大きな脅威はインディアンと、西にあるニューネーデルラントのオランダだった。特に小さな植民地は、かなり人口の多いマサチューセッツ湾植民地から費用の面で恩恵を受けていた。ヘインズは総督の任にあるときに、地元インディアンとの紛争の調停や、ニューネーデルラントのオランダ代表との交渉に呼び出された。オランダはコネチカット川沿いのハートフォードから南を領有主張していた。あるオランダ人交易業者が、領有権を主張していた土地をイングランド人が奪ったことに苦情を言ってきたとき、ヘインズは、オランダ人が土地を開発するために何もしなかったこと、「そのような肥沃な土地を耕さないでおくことは罪であること」と主張して、その土地を実質的に没収した。この論争の結果、1640年代にイングランドとオランダの間に軍事的に小さな衝突に繋がったが、1650年のハートフォード条約で一時的に解決され、オランダは川沿いの土地の領有権を放棄した。1664年にイングランドがニューネーデルラントを占領した後であっても、領土問題が続き、ヨーク公の認証に書かれた領土の定義はコネチカットのものと重複していた。
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