キルケゴールにおける弁証法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 23:17 UTC 版)
「弁証法」の記事における「キルケゴールにおける弁証法」の解説
キルケゴールはみずからの弁証法を質的弁証法と呼び、ヘーゲルのそれを量的弁証法と呼び区別した。たとえば美的・倫理的・宗教的実存の領域は、質的に本質を異にし、そこにはあれもこれもでなく、あれかこれかの決断による選択、あるいは止揚による総合でなく、挫折による飛躍だけがある。 実存は、成りつつあるものとして無限への無限な運動、また単なる可能でない現実としてつねに時間的であり、その時間における運動は、決断とその反復において、時間における永遠を満たす。矛盾によって各々の実存に対して迫られた決断における真理の生成が、主体性の真理であり、主体的かつ実存的な思惟者は、いわば実存しつつ問題を解く。 絶対弁証法 上記のヘーゲルの、「運動の弁証法」が形式論理内にある弁証法としてはアリストテレスのそれよりも代表的だったところ、西洋に特有の無矛盾の静的な(もしくは無矛盾化する運動を可能とする)形式論理、を超えた形式背理の側から、西田幾多郎が「絶対弁証法」であるとしているものがある。そこでは止揚されるべき矛盾はそれが可能な(形式論理下の)相対矛盾ではなく絶対矛盾であり、その結果、矛盾の止揚を経て自己同一性を保持するのではなく自己矛盾にあり、運動と静止が同時存在する。このようなニュアンスを帯びるため、これは弁証法と呼ぶべきでないとする主張が、同じく形式背理に即して西田の系譜にある木岡伸夫からもその著『<あいだ>を開く』で出ている。しかし、運動が未発ではあっても、怠惰のために静止にあるわけではなく、弁証法運動への精神は旺盛にあるが形式論理にある問題を見据えるために動けないのだ、ということを理解してここに添えておくのが、弁証法を総体的に、東西両洋を超えた視点で理解するために適切である。 否定的弁証法(/ヘーゲルの弁証法を正の弁証法とした意味での「負の弁証法」とも訳せる。) 直上の西田幾多郎が「絶対弁証法」と呼ぶものが、アドルノが1966年の書Negative Dialektikで「否定的弁証法/負の弁証法negative Dialektik 」と呼ぶものにほぼ合致している。時代的に西田の主張が先行している。(1949年刊行の西田幾多郎全集第XI巻に所収の論文「場所的論理と宗教的世界観」では既に使われている)アドルノのその呼称で意味するものは、「存在するものと考えられるものとの間の同一性という概念を前提としないような、またそのような概念のうちに帰着しないで、まさしくその反対物を明示しようとする、つまり、概念とものとの間の、主客の間の、分離志向を、そしてそれらの間の非宥和性を、明示しようとする哲学の起草」である。西田が形式論理への批判という根源的否定性から行きついているに対して、アドルノの“否定的”弁証法には、存在の同一性に基づいたものである形式論理を否定するまでの否定性はない。
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