エウリピデス【Eurīpidēs】
エウリピデス
エウリピデス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 04:58 UTC 版)
エウリピデスは三大悲劇作家の中では最後発になる。彼はソフィスト的教養の元、人間の心理描写を得意とした。そのために、悲劇の英雄も人間として描き、時には不倫など不道徳も劇に乗せた。アリストパネス自身は思想的には貴族趣味で復古的であったから、エウリピデスはむしろ彼にとって好ましからざる人物である。そのような視点がこの作のあちこちに見て取れる。特に詭弁とも取れる言葉には批判的で、彼の作『ヒッポリュトス』の「舌は誓ったが心は誓わぬ」は再三にわたって皮肉に使っている。 この言葉は、ヒッポリトスに継母のパイドラーが思いを寄せているのを知った乳母が彼にそれを伝えた時、その内容に怒った彼が発した言葉で、「内容を知らずに誓ったのだから心は潔白である」との意味だが、表面的には無茶であるから、当時大いに話題になったらしい。アリストパネスはこれをあえて曲解して「誓いはしたが欲に目がくらんだら破る」などという意味に言い換えている。この作でも最後にアイスキュロスを選ぶ時にこのせりふを引いている。 にもかかわらず、アリストパネスは彼の作を高く評価することも忘れてはいない。作中の競技が終わってもどちらとも決めかねるディオニュソスの台詞「一人は賢明、また一人を私は愛好している」は、前がエウリピデスであるが、ここではその両者を同等のものとして比べている。 競技では、作品全体について、エウリピデスが自らの作品をさして自分以前の作家のもつ贅肉を削り、人物は皆、考えを巡らし、ちゃんとものを話すようにしたこと、妙なこけ脅かしでなく、分かりやすい言葉を使ったこと、日常を舞台に乗せたこと、そのためには恋愛や不義をも描いたことを述べる。これに対して、アイスキュロスは詩人は市民の師であるとの考えのもとに、理屈と口数の多いものを上演することは、市民に言い逃れやごまかしを教えるものだ、また、不義は実在するものではあるが、詩人たるもの、そのようなものは市民の前から隠すべきであると言う。ここには古来の口数少ない戦士のような在りようを善しとする、アリストパネスの見方も加わっているであろう。 次にプロローグについては、アイスキュロスはまず個々に問題点を指摘しようとするが、これは揚げ足取りにしかならない。そこで、面倒だから全部まとめて油壷で潰してやる、と宣言。続いてエウリピデスが挙げるさまざまな作品のプロローグに「油壷をなくしたとさ」という句をつないで見せる。要するに、彼のプロローグは皆一本調子で同じリズムだ、という皮肉である。エウリピデスは7つめにこの句をつけられないものを挙げることができるが、そこはディオニューソスに止められてしまう。実際にはこの句をつけられるプロローグはアイスキュロスやソフォクレスにもあるが、特にエウリピデスに多いのは確かだという。それでも最後にそれをつけられない例を挙げたのは作者の公平な姿勢と言えよう。 音楽に関しては、アイスキュロスは自作を批判されたのを受け、自分のはちゃんとした伝統に則っているが、エウリピデスは、そこへ土俗的な雑多なものを持ち込んだと批判し、彼の歌のパロディを演じて見せ、ここがおかしい、と指摘する。しかし、音楽に関する知識が残っていない以上、これはどこがどうおかしいのか、現在では知ることができない。 最後の詩句の重さの比較で、エウリピデスは説得の神を含む詩句を挙げ、負けたのを不思議がっているが、ディオニューソスは「口先だけで薄っぺら」と評した。これは、むしろ作家のソフィスト嫌いが反映されているのであろう。
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