イラク王国の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 01:23 UTC 版)
第二次世界大戦後、1946年にイラク王国はアラブ連盟に参加してイスラエルと対立する一方、摂政及びヌリーの方針もあって中東における英米の同盟国として振る舞い、アラブにおける親英派のリーダー及び反共産主義の防波堤を自負。1948年のイスラエルの独立に伴う第一次中東戦争によってアラブ民族主義が高まり、アラブ諸国の連携が深まることになった。イラク王国も第一次中東戦争に参戦してイスラエルと戦ったが、アラブ圏の盟主を自負するイラクはアラブ諸国との歩調をとるのに失敗した。宿敵のサウジアラビアやイラク同様アラブ圏のリーダーを自負するエジプト王国やシリアと連携できなかったばかりか、ヨルダン・ハシミテ王国に対しても、イラク摂政のアブドゥル・イラーフはヒジャーズ王家・ハーシム家の長男家としての自負ゆえに叔父であるヨルダンのアブドゥッラー1世がハーシム家内で優位になるのを嫌ったために歩調などとれるはずもなかった。アラブ諸国軍はイスラエルに敗れ、イラク経済は悪化した。また、この敗戦でショックを受けた軍将校内部では、1952年の自由将校団のエジプト革命を機会に次第に反米英共和制派が台頭する。 1955年にはソ連に対する封じ込めのための中央条約機構(バグダード条約機構)をトルコ、パキスタン、イラン、イギリスとともに設置した。この本部はバグダードに置かれた。しかしエジプトのナーセル大統領はアラブ民族主義者の立場から、イギリス勢力が中東に残ることを反対して機構に参加せずイラクの君主制に対しても批判を加えた。1958年には、エジプトとシリアが「アラブ連合共和国」として統合。これを契機にアラブ世界に「統合か否か」の葛藤が生まれ不安定な様相を呈することになった。 イラク王国は同じハーシム家でエジプトとシリアに挟まれ、且つ前年に危うくクーデターにより打倒されかけたヨルダンと、イラクのファイサル2世を首班とする「アラブ連邦」を形成し、軍隊を統合するなど連携を深めてアラブ連合共和国への対抗やイギリスからの支援を模索した。しかし、この年の7月14日、アラブ連合共和国による圧迫で危機が迫るヨルダンの応援に向かうよう指示された青年将校グループが、経由地のバグダードでクーデターを起こし、国王一家や摂政を虐殺した(7月14日革命)。クーデターを指揮したカースィム准将は人民共和国の樹立を宣言。イラク王国は滅亡した。
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