イラク王国の樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 01:23 UTC 版)
1918年に第一次世界大戦が終結するとパリ講和会議で民族自決の原則が唱えられた。その結果アラブ地域にも独立国が樹立される機運が生まれたが、これらアラブ地域はサイクス・ピコ協定に基づきイギリスおよびフランスの委任統治領として分割されることになった。さまざまな宗教や民族が混在していたシリア・パレスチナ地域やイラク地域にどのように国境線を引くかはイギリスとフランスの意思にゆだねられた。クルド人の多い北のモースル州、スンナ派やシーア派の混住するバグダード州、シーア派中心の南のバスラ州を一つの国としてまとめ、スンナ派を重視することを主張したのはイギリスのアラブ専門家ガートルード・ベルであった。モースル州はフランスの勢力圏からイギリスの勢力圏へと移された地域で、イギリス内にはモースル州をイラクに含めることへの反対意見もあったが結局ベルの意見に押し切られた。ベルはイラクの支配体制について、アラブ反乱を率いたハーシム家を迎え入れて君主国とすることを提案した。 1920年、スンナ派のハーシム家の男子を王とするシリア・アラブ王国が樹立されたが、フランスはこれを拒否して武力での排除を開始し、国王ファイサル1世がダマスカスを追放された。これに対しイギリスは、イラク王国(イギリス委任統治領メソポタミア)の国王にファイサルを受け入れた。イラク王国の王となる予定だったアブドゥッラー1世は、イギリス委任統治領パレスチナの東部を割譲して作ったトランスヨルダンの国王に収まった。一方でイラクのクルド人らは自治独立を求めて争ったが、1920年から1922年にかけてのイギリス軍による無差別攻撃により鎮圧された。 イギリス委任統治領メソポタミアとイギリスは1930年にイギリス・イラク条約(英語版)を結び、イラクは独立へと向かった。イラク王国は1932年10月3日にファイサル1世を王として独立を承認された。1927年には北部キルクークで油田が発見されたことによりイラク経済は潤い始めた。ただしイギリスは基地をイラク国内に維持し、軍隊をイラク国内で自由に動かす権利を得ており、イギリスによる石油支配とイラク間接支配は続いていた。ファイサル1世が1933年に死去した後、アラブ民族主義に理解を示しイギリスの支配に反発するガージー1世が即位したが、1939年に自動車事故で急死した。反英的な国王の事故死には疑問の声も上がった。4歳のファイサル2世が王に即位したが、国内には反イギリスの不穏な雰囲気が広がりつつあった。
※この「イラク王国の樹立」の解説は、「イラク王国」の解説の一部です。
「イラク王国の樹立」を含む「イラク王国」の記事については、「イラク王国」の概要を参照ください。
- イラク王国の樹立のページへのリンク