イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)
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1932年10月3日、イギリス委任統治領メソポタミアが、ハーシム家のファイサル1世を国王とする立憲君主国イラク王国として独立した。1939年に日本とイラクとの間で国交が樹立され、同年11月に在イラク日本公使館がイラクの首都バグダードに開館された。しかし、既にさかのぼる9月1日に第二次世界大戦が勃発しており、日本とイラクの関係が今後どうなるかは全く予断を許さない状況であった。 第二次世界大戦の影響で、当時のイラクの政局は極めて不安定であった。親英反枢軸国派のヌーリー・アッ=サイード首相や反英親枢軸国派のラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)首相などが短期間の政権交代を繰り返すなど、イラクの国論は真っ二つに割れていた。かように不安定なイラクの政局を収束させたのは、大国イギリスによるイラクへの武力介入であった。1941年5月にイギリス軍はイラクを占領し、親枢軸国派のアル=ガイラーニー首相を追放した。イギリス軍が首相の追放だけでは飽き足らず継続してイラクを占領したことにより、イラクが連合国の側に立って、枢軸国の一角を占めていた日本と袂を分かつことは時間の問題となった。遂に1943年1月17日、イラクは日本を含む枢軸国に対して宣戦布告。その後、日本とイラクは国交を回復することがないまま、1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾して降伏した。 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したことにより、日本は国際社会の一員として復帰した。1955年8月18日にイラク王国がサンフランシスコ講和条約を批准し、これにより日本とイラクとの間で約12年半ぶりに国交が回復した。同年12月、在日イラク公使館が東京で開設された。また、第二次大戦のため閉鎖されていた在イラク日本公使館も再開された。しかし、両国の国交回復から3年と経たない1958年7月14日にイラクで王制打倒のクーデターが起こり、革命が成就してイラク共和国が誕生した。
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