イラク王国の独立から王制崩壊までとは? わかりやすく解説

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イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:13 UTC 版)

日本とイラクの関係」の記事における「イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)」の解説

1932年10月3日イギリス委任統治領メソポタミアが、ハーシム家ファイサル1世国王とする立憲君主国イラク王国として独立した1939年日本イラクとの間で国交樹立され同年11月在イラク日本公使館イラク首都バグダード開館された。しかし、既にさかのぼ9月1日第二次世界大戦勃発しており、日本とイラクの関係今後どうなるかは全く予断を許さない状況であった第二次世界大戦の影響で、当時イラク政局極めて安定であった。親英反枢軸国派のヌーリー・アッ=サイード首相反英枢軸国派のラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版首相などが短期間政権交代繰り返すなど、イラク国論真っ二つ割れていた。かように不安定なイラク政局収束させたのは、大国イギリスによるイラクへの武力介入であった1941年5月イギリス軍イラク占領し、親枢軸国派のアル=ガイラーニー首相追放したイギリス軍首相追放だけでは飽き足らず継続してイラク占領したことにより、イラク連合国の側に立って枢軸国一角占めていた日本袂を分かつことは時間の問題となった遂に1943年1月17日イラク日本を含む枢軸国に対して宣戦布告その後日本イラク国交回復するとがないまま、1945年8月14日日本ポツダム宣言受諾して降伏した1952年4月28日サンフランシスコ講和条約発効したことにより、日本国際社会一員として復帰した1955年8月18日イラク王国サンフランシスコ講和条約批准し、これにより日本イラクとの間で約12年半ぶりに国交回復した同年12月在日イラク公使館東京開設された。また、第二次大戦のため閉鎖されていた在イラク日本公使館再開された。しかし、両国国交回復から3年経たない1958年7月14日イラク王制打倒クーデター起こり革命成就してイラク共和国誕生した

※この「イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)」の解説は、「日本とイラクの関係」の解説の一部です。
「イラク王国の独立から王制崩壊まで(1932~1958年)」を含む「日本とイラクの関係」の記事については、「日本とイラクの関係」の概要を参照ください。

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