イスラエルの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 05:58 UTC 版)
1956年10月29日午後5時、イスラエル国防軍ラファエル・エイタン中佐指揮の落下傘部隊395人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72kmの地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始した(シナイ作戦)。 イスラエル陸軍は、10個旅団の兵力で3箇所からシナイ半島に侵攻し、アリエル・シャロン大佐の落下傘部隊・第202空挺旅団もイスラエル国境から砂漠を横断する補給路の確保のため陸路シナイに入っている。エジプト軍は、シナイ半島東部やガザ地区に、歩兵2個師団・機甲1個旅団などを配置していたが、各所で撃破されている。 第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイスラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。 10月30日午後、ロンドンでイギリス政府により、スエズ運河から少なくとも16km内陸に入った地点まで兵力を撤収するという最終通告がイスラエル、エジプト両国代表に手渡された。この時点でエジプトは運河を完全に占拠しており、イスラエル軍はそこから約50kmの地点にいたため、この通告は事実上エジプトに対する運河からの撤去命令であり、英仏の目論見によるものであった。 ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河に沈めてバリケードを築いたのである。 10月31日の早朝、エジプト海軍のフリゲート艦イブラヒム・アル・アウワル(旧英海軍ハント級駆逐艦)からの砲撃がハイファに向けて行われたが、フランス海軍の駆逐艦クレセントの迎撃や、イスラエルのウーラガン戦闘機2機、駆逐艦エイラートとヤッフォの攻撃により、イブラヒム・アル・アウワルは被弾、発電機等が破壊された。そのため、イブラヒム・アル・アウワルは降伏し、ハイファ港に曳航された。同日には英仏軍によるエジプト領内への爆撃も開始されている。 通告の回答を保留したイスラエル軍は単独でエジプト軍との地上戦を続けた。シャロンはエジプト側の防御の硬いミトラ峠を攻略しないよう参謀総長モーシェ・ダヤンに命じられていたが、「偵察隊」と称してモルデハイ・グル少佐の指揮する部隊(一個大隊相当、更に一個大隊を増援)を送り込み、この部隊はエジプトの待ち伏せに遭うことになった。38人の死者を出したものの峠は攻略され、エジプト側の死者は200人を超えた。この作戦に関してダヤンとシャロンは激しく批判され、2人の確執を生むこととなった。 11月2日までに、イスラエルは途中ソ連製戦車T-34など戦利品を獲得しながらスエズ運河の東15kmの地点までたどり着いた。同じく11月2日に10,000人以上のエジプト軍人が駐屯するガザ地区にも攻撃を加えた、同日中に国連の調停によりガザ地区のエジプト軍政官が降伏した。 11月1日からは空母イーグル、アルビオン、ブルワーク、アローマンシュ、ラファイエット(旧米海軍インディペンデンス級)と戦艦ジャン・バールからなる英仏機動部隊がエジプト領内への空襲を開始し制空権を確保した。 英仏軍は11月5日、シナイ半島への侵攻を命じた。さらにイギリス軍は落下傘部隊を以て、スエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。6日からは戦艦や巡洋艦の艦砲射撃の援護のもと上陸作戦を開始した。
※この「イスラエルの侵攻」の解説は、「第二次中東戦争」の解説の一部です。
「イスラエルの侵攻」を含む「第二次中東戦争」の記事については、「第二次中東戦争」の概要を参照ください。
- イスラエルの侵攻のページへのリンク