アリウス派問題とニカイア公会議
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「コンスタンティヌス1世」の記事における「アリウス派問題とニカイア公会議」の解説
そこで、現在の問題の発端は次のところにあったと余は理解している。すなわち、アレクサンドロスよ、汝が、法に書かれたうちの或る箇所について、或いはむしろ何らかの問いのつまらない部分について、司祭たちの各々が何を理解するかということを彼らに訪ねて、アレイオス(アリウス)よ、汝が、そもそも思念されてはならず、また思念されたとしても沈黙に付すのが至当であったことを、不注意にも返答したのだ。それゆえに汝らの間に不一致が生じ、集会の交わりは否定され、至聖なる民は両者に分裂し、共通のからだの調和から分離された。それゆえ汝らは各々等しく赦しを与えて、汝らと同じしもべが正しくも汝らに勧めることを受け入れよ。ではそれは何か。そもそもこのような事柄については、問うことはふさわしくなく問われた側は答えることはふさわしくなかったのだ... -コンスタンティヌス1世からアレクサンドロスとアリウスに送られた手紙。 324年にリキニウスの支配していた東方を手中に収めたコンスタンティヌス1世は、この新たな征服地のキリスト教徒たちが西方におけるドナトゥス派よりも深刻で広範な分裂を起こしているという事実に直面した。東方の教会の分裂はエジプトのアレクサンドリア司教アレクサンドロスと司祭アリウス(アレイオス)との間の、絶対者である神とその子キリストをどのような存在であると認識するか、という問題についての論争に端を発するものであった。 アリウスは神が「永遠にして不可知」たるモナド(単子、存在の究極の単位)であり、完全に単一で分割不可能であると主張した。この神の超越性を厳格に強調する立場の下、父(神)が分割不可能である以上はその御子(キリスト)は神と同一の存在ではありえず、完全なる神性を備えない下位の被造物であるとした。そして父なる神とは別個の存在であり被造物である以上、キリストは無から創造されたものであるとも主張した。一方の司教アレクサンドロスはキリストが万物の創造主、人類の罪をあがなう存在であり、神そのものであると主張した。アレクサンドロスはアリウスを破門したが、アリウスは各地の教会に支持を呼びかけ、論争は小アジアやパレスチナにも飛び火していた。 コンスタンティヌス1世はこの状況の解決を求めた。彼はこの難解な形而上学的・神学的論争について理解できなかったか、少なくともそれを厳密に追及することに興味を持たなかった。そして「取るに足らぬ非常に小さな事柄」(ウィルケン)を争うのをやめ速やかに論争を止めることを要求した。しかし両派は頑なであり論争と分裂は拡大の一途を辿った。その後、本格的な介入が考慮されるようになると、エジプトではさらにメリティオス派がアレクサンドリアの教会と対立し分裂していることも明らかとなった。 散発的に行われる各地の司教会議で事態が一向に沈静化しないことに業を煮やしたコンスタンティヌス1世は、ドナトゥス派の時と同じようにより大きな規模の公会議によってこれを解決しようと目論み、325年5月20日にニカイア(ニケア)に東方から数百名の司教を招集し、西方から司教6名とローマ司教(教皇)の代理の助祭2名を加えニカイア公会議(第1回全教会会議)を開催した。この会議はローマの元老院や都市参事会の会議をモデルに進められ、教義において重要な論争にはコンスタンティヌス1世が自ら参加し指導的な役割を演じた。その中で、コンスタンティヌス1世は、アリウスを積極的に支援した。何故なら、アリウスの理論は、子なる神を父なる神に従属させることで、神の唯一性を理論的に基礎づけることができ、これによって帝国独裁政治理念に都合のいいイデオロギーを提供したからである。 主要な参加者としてアリウス派からアリウス本人の他、強力なアリウス派の司教であったニコメディアのエウセビオス(英語版)、反アリウス派からアレクサンドリア司教アレクサンドロスや特に強硬であったことで知られるアンティオキアのエウスタティオス(英語版)、そして当時はまだ重要な人物ではなかったものの、アレクサンドロスの死後に反アリウス派(ニカイア派、アタナシウス派)の議論を主導することになる助祭アレクサンドリアのアタナシウス(アタナシオス)らが参加した。さらにアリウス派には組しないものの、コンスタンティヌス1世の信頼厚く妥協的な態度を取ったカエサレアのエウセビオスや、西方の教会に属しコンスタンティヌス1世の相談役を務めたコルドバのホシウス(英語版)なども重要な役割を果たしたと言われている。他に、東方の指導的な司教のほとんどが参加していた他、アルメニアやクリミア、ペルシアといったローマ帝国外の司教も参加し、その世界性・普遍性が強調された。 この会議におけるコンスタンティヌス1世の姿勢は明確であった。彼はこの論争が本来不要なものであり、また教会の分裂はそれ自体が罪であると見做した。このため、全体が受け入れられるような包括的かつ妥協的な決着が探られたが、各派が神性について多用な見解を提出し容易に収拾はつかなかった。そして会議の最中、コンスタンティヌス1世は「ホモウーシオス(Homousios、同一本質の)」という用語で父(神)と御子(キリスト)の関係を表現するという(ジョーンズによれば不用意な)提案を行った。これは相談役であったヒスパニアの司教ホシウスの影響を受けて、西方の教会の信条から着想を得たものと推定され、東方の教会関係者はこの用語を受け入れることを嫌った。しかし、この皇帝自らの提案をアリウス派が神学的に受け入れることが不可能であることに乗じた東方の反アリウス派は、まずアリウス派を排除することを優先してこの用語の受け入れを表明し議論をリードすることに成功した。この結果、ニカイア公会議においてアリウスの破門とアリウス派の排除が決定され、コンスタンティヌス1世は各司教たちにこの信条(ニカイア信条)を圧力をかけて受け入れさせた。 こうして反アリウス派がアリウス派に勝利したが、アリウス派はその後も自分達の信条を捨てることはなく、またコンスタンティヌス1世もその死までアリウス派との妥協による教会の統一を諦めなかった。そのため327年に再びニカイアで公会議が開催され、アリウスの教会復帰が認められた。しかし、その後もアリウス派、反アリウス派(主流派)、メリティオス派など各派が諍いを続け、コンスタンティヌス1世はこれに激しく苛立った。特にアレクサンドロスの死後の328年にアレクサンドリア司教となったアタナシウスは強固な信念を持ち、皇帝と帝国政府からいかなる圧力を受けてもアリウス派を拒否し続け、コンスタンティヌス1世の妥協的な方針を断固として受け入れなかった。 コンスタンティヌス1世は335年にテュロスで公会議を開き、さらにエルサレムで大教会会議を開催して、自身がキリストの墓に建てた大聖堂で統治30周年の式典が執り行われること、そして教会の統一が為されることを求めた。しかし、最終的に教会は統一されることなく、アリウス派と反アリウス派の争いはその後も1世紀以上に渡って継続することになる。
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