コンスタンティヌス1世
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ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、270年代前半の2月27日-337年5月22日[1])は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年-337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた。
注釈
- ^ マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌス1世の結婚の事情を巡る時系列は各出典で微妙に異なるため以下に注記する。ブルクハルトはマクシミアヌスとマクセンティウスの反目はガレリウスとの戦いの前に始まっており、コンスタンティヌス1世の下へ赴き縁談を持ち込んだのはガレリウスに対抗すると共にマクセンティウスに対する優位を得るためであったともする[34]。また、ジョーンズはこの結婚を307年3月31日のことと断言しており、ガレリウスとマクセンティウスの戦いはその後であると描写する[31]。これはランソンも同様であるが、ただし彼の描写では3月31日というのはラテン語頌歌第6番が発表された日付である[33]。以上の出典は事情の説明を多少異にするが、コンスタンティヌス1世とファウスタとの結婚の後ガレリウスとマクセンティウスの戦いが行われたという時系列は一致している。一方、レミィは9月にガレリウスがマクセンティウスに撃退された後、12月頃にマクシミアヌスとコンスタンティヌス1世が互いを正帝として承認し、コンスタンティヌス1世とファウスタが結婚したと説明する[35]。スカーはファウスタとの結婚について、厳密な時系列には言及しない[36]。
- ^ バッシアヌスの副帝任命を巡る事情についても、出典間で細部が異なるため以下にまとめる。ジョーンズはコンスタンティヌス1世がリキニウスの警戒心を和らげるためにバッシアヌスを副帝として自分の支配地を分割することを提案したが、リキニウスは自分の臣下でバッシアヌスの兄弟であったセネキオを利用してバッシアヌスをコンスタンティヌス1世から離反させようとしたため両者は対立に至ったと描写する[63]。ランソンはリキニウスが自身の側近であったバッシアヌスを副帝としてイリュリアに配置したが、コンスタンティヌス1世はバッシアヌスが陰謀をたくらんだことを理由に排除し、イリュリアに侵攻する口実としたとする[65]。スカーはリキニウスとコンスタンティアの間に生まれた息子リキニウス2世が将来副帝に就くことを妨害するために、義弟だったバッシアヌスを副帝としてイタリアの支配権を与える提案をしたと描写する[64]。
- ^ この3名の副帝即位は317年3月1日である。ただし、314年から戦争が始まったという時系列を採用しているジョーンズは315年には和平が成立し、コンスタンティヌス1世とリキニウスが同年の執政官(コンスル)職を共に担当したとする。317年3月1日まで「不明な理由」によりこの3名の副帝即位が延期されたとする[68]。ランソン、スカーの採用する時系列では和平から即位までの間にこのような時間差は想定されていない。
- ^ ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人とフリュギア、カッパドキアから動員した騎兵15,000を集めたとされる[72]。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世がガレー船200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった[72]。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している[69]。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている[69]。
- ^ a b 尚樹によればこの諸局長官(Magister officiorum)の設置はコンスタンティヌス1世によるものである[74]。しかし、ジョーンズはリキニウスの宮廷における諸局長官の地位に言及している[73]。
- ^ a b 原語名と和訳の対応は尚樹 2005, p. 156の索引に依った。ランソンは実際にはコンスタンティヌス1世の治世中はこの組織は顧問会(consilium)と呼ばれており、consistoriumと呼ばれるようになるのはコンスタンティヌス1世死後であるとしている[79]。 本文中で枢密院としたのは尚樹の著作による。なお、consistoriumの日本語訳は一定しない。尚樹は「枢密院」と訳すが、ランソンの著作を訳した大清水は「御前会議」の語をあてている。
- ^ クリスプスの罪を考える上で、ジョーンズは326年4月1日にアクィレリアで発布された少女の誘拐について定めた奇妙な勅令を論拠に、クリスプスが無名の少女を誘拐して関係を持った可能性を推測している。この勅令は誘拐された少女がそれを進んで受け入れた場合、愛人と同じく罪を追うべきであり、拒否した場合でも(叫んで助けを求めることができたはずなので)なお罪を追うと定められている。そして少女の両親がこれを黙認した場合にはその両親も追放刑に処されるべきとされている[94]。更に仲介役を担った奴隷は鉛で口を封じられるべきであるともされている[94]。この勅令の具体的な内容、発布された日付、ヒステリックな調子から、ジョーンズはこれがクリスプスに関連して出されたものであり、クリスプスが無名の少女を誘拐し、彼女の両親がそれを妥協によって処理しようとした可能性を推測している[94]。クリスプスは既婚者であり、しかも同時期に妻帯者が妾を持つことを禁止する法律(或いはこの事件に関連して発布されたものである可能性もある)が出されていることから、これが事実とすればクリスプスの罪は単なる醜聞以上のものであった[95]。
- ^ この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World, ed. Peter Brown)。
- ^ 南雲泰輔によれば、ローマ市をモデルにして7つの丘を定めたという話は、この都市が「新たなるローマ」として建設されたという説明の典型であるが、後代の後付けである。コンスタンティヌス1世の治世には市内に丘は6つしかなく、7つ目の丘が市内に組み込まれたのはテオドシウス2世(在位:408年-450年)の治世に入ってからのことになる[115]。
- ^ 大清水の訳では財産管理官[142]。
- ^ 大清水の訳では帝室財務総監[142]。
- ^ 大清水の訳では帝室財産管理官[142]。
- ^ 大清水の訳からは帝室財産総監となる[142]。
- ^ 大清水の訳では官房長官[142]。
- ^ コンスタンティヌス1世がこのような新たな戦略に基づいて軍団を再編したことは従来より通説となっている。しかしランソンは、この新たな編成は混乱していた階級秩序を正し、野戦機動軍、河川監視軍、アラレスやコホルタレスといった最下層の軍、という3段階のヒエラルキーを軍に確立することを主眼とした規定上の改革であり、地理的・戦略的な要素は無かったと主張している[146]。
- ^ 大清水の訳では宮廷警護隊[147]。
- ^ ランソン、およびスカーの解説では会計年度(4年ごと、lustrum)ごとに徴収されたとなっている。また、制定したのはリキニウスである可能性もあるという[159][160]。本文では尚樹、およびジョーンズの著書を訳した戸田が5年税という訳語を用いていることから、それに従った。
- ^ ただし、ネロ帝によるキリスト教徒への弾圧はキリスト教の信奉者それ自体を理由にしたものではなく、キリスト教への弾圧というよりは、政治的な理由によるものであった[173]。
- ^ シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。
- ^ ピーター・ブラウンなどはコンスタンティヌス1世の改宗はその頃までにキリスト教がローマの支配階級にとって重要な宗教になっていたためであると描写している[176]。しかし、日本の学者豊田浩志は、当時の史料において元老院身分の中に登場するキリスト教徒を抽出し、支配階層のキリスト教への改宗が4世紀、コンスタンティヌス1世の時代以降もなお限定的であったことを具体的な数値と共に示しており、またヴェーヌおよびジョーンズの解説も豊田のそれと整合的であるため[177][51]、本文の説明はこの見解に従う[178]。
- ^ 豊田浩志の紹介・要約による。
- ^ ヴェーヌはコンスタンティヌス1世の改宗についてその内心を知ることは不可能であり、それを推し量ることは無意味であると言う。ヴェーヌはこの問題について「心理学者たちが語るところの、あの開くことのできない『ブラックボックス』(もしくは、もしひとが信者なら、『助力の恩恵〔神の超自然の助け〕』)のうちに見いだされるものなのだ。宗教的な感情を覚えるとはひとつの情動であり、ある存在、ある神が実在するというむき出しの事実を信じることは説明不可能なままにとどまる表象行為なのである。」と述べている[52]。
- ^ 和訳タイトル:『ローマ帝政の歴史』
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固有名詞の分類
ローマ皇帝 | ガッリエヌス プブリウス・セプティミウス・ゲタ コンスタンティヌス1世 アウルス・ウィテッリウス ヘリオガバルス |
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