「潜行」生活
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1971年8月に起こった朝霞自衛官殺害事件の首謀者と目され、1972年1月9日に指名手配されると「一方的に着せられた身に覚えのない濡れ衣を官憲に対して自ら晴らさねばならない義務はない」との声明を出し、大阪府高槻市の自宅に妻子を残したまま、大阪府寝屋川市の愛人との隠れ家から逃亡し潜行。1977年6月、京都大学評議会は竹本の分限免職処分を決定した(竹本処分)。1980年6月、手配容疑の強盗予備罪の公訴時効が成立する直前、新たに強盗致死の逮捕状が出たため、公訴時効はさらに12年延長された。 竹本は潜行中の1974年6月19日、滝田修名義で「只今潜行中・中間報告」を序章社から出版。この間、元京都府学連執行委員である友人の自宅(奈良県大和高田市)、映画監督の土本典昭の実弟の自宅(東京都世田谷区)、弁護士の青木英五郎の甥の自宅(東京都新宿区)、画家の丸木位里の自宅(埼玉県東松山市)、被差別部落の詩人の植松安太郎(筆名・百合崎迅)の自宅(埼玉県深谷市)などを匿われて転々とし、「山崎篤」の偽名を用いてモテルでの雑役夫や家庭教師、蕎麦屋の店員、プレス屋、植木屋、庭石屋、土建屋、梱包屋、弱電メーカー(下請け)の工員、シャッター会社(下請け)の工員、長距離トラックの助手などの仕事を転々として糧を得る一方で、流れ者への警戒心を封じるために知的障害者を装ったこともある。やがて栃木県足利市のプレス工場で旋盤工として働き出したが作業中の事故で右手人差し指と中指を切断。この切断障害が警察から目印とされるようになる。その後、群馬県大泉町や群馬県館林市、東京都世田谷区、川崎市多摩区と移り住み、画家中村正義、画家山下菊二に匿われていたが、1982年8月8日午後4時55分、川崎市多摩区枡形の生田緑地内日本民家園で愛人と共に散歩しているところを埼玉県警に逮捕された。10年7ヶ月の逃亡生活であった。
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