「潜行」の軌跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:14 UTC 版)
1972年1月9日、大阪府寝屋川市の愛人宅から逃走。奈良県大和高田市の友人(元京都府学連執行委員)の自宅に潜伏(同年4月16日まで)。この期間、「確実に反撃を開始しよう」と題する声明文を「序章」第7号や「京都大学新聞」1月24日号に発表。 1972年1月26日、映画監督土本典昭、『情況』編集部柴田勝紀ら4人が滝田捜索のため家宅捜索を受ける。 1972年2月11日、京大構内で開かれた「学費値上げ粉砕・自衛隊沖縄派兵阻止・集中弾圧粉砕京大全学集会」に声明文を寄せる。 1972年4月16日、寺に身を寄せる予定で茨城県まで自動車で移動したが住職の不同意により予定を変更し、東京都の知人宅に身を寄せ、1973年1月まで都内11ヶ所を転々とする。 1972年9月8日、パリでの目撃証言が『時事』に誤報される。 1972年11月末、テレビのクイズ番組に滝田と酷似する男性が出演し、通報を受けて警視庁が捜査したが別人と判明。 1972年12月、熊本市内で滝田と酷似する男性が職務質問を受けるが別人と判明。 1973年1月頃 - 埼玉県東松山市の丸木位里宅で1ヶ月間潜伏。 1973年2月 - 長野県を経て静岡県沼津市およびその周辺へ。 1973年春頃 - 東京都内を経由して埼玉県の植松安太郎の親類経営のモテルへ住み込む。業務の内容は、モテルの宿泊客が残した陰毛の掃除や便所掃除、シーツやコンドームの交換などであり、滝田当人はこの仕事について「公然と侮辱されている感じ」と述べている。 1973年6月20日、神戸大学の「造反教官」松下昇や徳島大学の山本光代などが滝田捜索のため家宅捜索を受ける。 1973年6月28日と29日、池田浩士、菅谷規久雄、坂本守信などが家宅や研究室の捜索を受ける。 1973年10月 - 東京都渋谷区のマンションへ。 1975年春以降 - 埼玉県や群馬県の各地を転々とし、蕎麦屋の店員、プレス工、植木職人見習い、ブロック工として労働。この間、足利市のプレス工場で指を切断。 1977年春から1978年夏まで - 群馬県館林市の借家に潜伏。 1978年3月、藤堂明保や大谷竹山が滝田捜索のため家宅捜索を受ける。このため、大谷が親しい法務大臣古井喜実などを通じて埼玉県警に抗議し、謝罪させた。 1979年4月、小山弘健やその近隣者が滝田捜索のため家宅捜索を受ける。
※この「「潜行」の軌跡」の解説は、「竹本信弘」の解説の一部です。
「「潜行」の軌跡」を含む「竹本信弘」の記事については、「竹本信弘」の概要を参照ください。
- 「潜行」の軌跡のページへのリンク