「山椒魚」の発表と受容
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「山椒魚 (小説)」の記事における「「山椒魚」の発表と受容」の解説
山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかへて外に出ることができなかつたのである。今は最早、彼にとつては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かつた。そして、ほの暗かつた。・・・ 「山椒魚」書き出し それから6年後の1929年(昭和4年)5月、すでに新進作家として活動していた井伏は「幽閉」を全面改稿し、同人雑誌『文芸都市』に「山椒魚 -童話-」として掲載した。「幽閉」とこの「山椒魚」は、山椒魚が岩屋に閉じ込められて出られなくなるという、基本的なプロットや道具立てはほぼ共通しており、長さとしてもさほどの違いはないが、後に見るように文体が大きく変えられており、冒頭の一文以外ほとんど共通する文章はない。また蛙との対話が付け加えられたのもこの改稿の際であり、結果として「山椒魚」は「幽閉」とはほとんど別の作品と言いうるものになっている。この「山椒魚」は1930年4月、井伏の最初の作品集である『夜ふけと梅の花』(《新興芸術派叢書》、新潮社)に「山椒魚」として収録された。以後井伏の著作集に繰り返し再録されながら作者の代表作として認められるようになり、高校の国語教科書にも採用され広く親しまれる作品となっていった。 井伏自身は「山椒魚(幽閉)」について、もともと試作のうちの一つとして書いた経緯から、「最初に発表した作品」ではあるが「処女作」ではないとしている。しかし『夜ふけと梅の花』以後、自分の作品集に「山椒魚」が収録されるときには必ず巻頭に据えており、作家としての自身の出発点と見なしていたことが伺える。井伏は単行本に収録されるたびに「山椒魚」を改訂したが、それらは主として文章表現上の訂正に留まっており、のちに述べる自選全集までは作品構成に関わる大きな変更は行わなかった。 批評・研究においては、この「山椒魚」も発表時には特に注目を浴びたわけではなかった。当時の井伏はむしろその前後に発表された「朽助のゐる谷間」「鯉」などによって評価を受けており、以後しばらく「山椒魚」は井伏の作家論のなかで言及されることはあったものの、長く独立した作品論の対象にはならなかった。本格的な作品論が書かれはじめるのは昭和30年代、中村光夫が「井伏鱒二論(一)-自然と人生」において、井伏の「厖大な著作に冠せられた序文」として「山椒魚」を取り上げ「どうにも動かしやうのない人生の現実にたいして、虚勢を張りながら無力を自認せざるを得ない、自己の精神の戯画」として論じてからであり、以後「幽閉」原文の発掘と比較研究、教材としての国語教育の分野での研究などを含め盛んに論じられるようになった。
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