「山本菅助」とその子孫とは? わかりやすく解説

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「山本菅助」とその子孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:56 UTC 版)

山本勘助」の記事における「「山本菅助」とその子孫」の解説

真下家所蔵文書沼津山本家文書によれば初代山本菅助の子息には二代山本菅助がいる。幼名は兵、諱は幸房とされる二代助は『甲斐国志』巻之九十六では「山本勘助」の項目に続いて勘助子息の「山本某」を立項し、実名不詳としつつ一本系図によれば名は「勘信供」としている。「山本某」は天正3年1575年5月21日長篠の戦い戦死したとし、『沼津山本家文書』でも二代助は長篠合戦戦死した記している。また、甲斐国志』巻之百九では「饗庭修理ノ亮」を立項し、饗庭利長(越前守次男の十左衛門頼元勘助の娘を妻とし改姓し山本十左衛門尉名乗ったとしている。 文書においては天正壬午起請文』において「信玄直参衆」に山本十左衛門尉の名が見られ武田氏滅亡後徳川家康仕えていることが確認されている。 2009年群馬県安中市発見され真下家所蔵文書には「山本菅助文書を含む5通の山本氏関係文書存在しているが、その中には天正4年推定の「山本菅助」の後継立場にあると考えられている山本十左衛門尉宛の軍役文書含まれている。また、慶長7年1602年)から慶長11年推定結城秀康書状は十左衛門尉の子平一宛で、徳川家康仕えた助・十左衛門尉の子孫が越前松平家仕えた可能性考えられている。 また、真下家所蔵文書のうち天文17年山本菅助武田晴信判物東京大学史料編纂所所蔵古文書雑纂」に収録されているが、注記拠れば雑纂所載山本氏文書明治25年12月小倉秀貫が山本勘助子孫であるという旧上野国高崎藩山本家所蔵の写を探訪したものであるという。高崎藩主は松平信綱5男信興を祖とする松平家で、家臣団関係資料である「高崎藩家格家筋並びに苗字断絶者一覧」には信興期からの家臣に「助」「十左衛門」を名乗る藩士存在していることから、「雑纂注記高崎藩山本家比定されるものと考えられている。 山本菅助子孫にあたる沼津山本家文書によれば、「山本菅助子孫徳川氏仕えた後に再び浪人甲斐にいたが、寛永10年1633年)頃に山城国淀藩永井尚政に再仕官し藩士となり、「助」の名乗り復したという。その後永井氏丹波国宮津藩への転封従い丹波移り、後に松平信興仕え、信興の転封により常陸国土浦藩下野国壬生藩越後国村上藩などを経て最終的に上野国高崎藩となっており、好事家真下家により文書収集されたものと考えられている。 沼津山本家文書によれば山本菅助子孫初代助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助同一視しており、再仕官したのちも甲州流軍学学んだ軍学者として活躍している。

※この「「山本菅助」とその子孫」の解説は、「山本勘助」の解説の一部です。
「「山本菅助」とその子孫」を含む「山本勘助」の記事については、「山本勘助」の概要を参照ください。

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