「山本勘助」の子孫を称する諸家
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「山本勘助」の記事における「「山本勘助」の子孫を称する諸家」の解説
寛政年間(1789年 - 1801年)に編纂された『寛政重修諸家譜』によると、寛永12年(1635年)に幕府持筒組与力として召し抱えられ、後に250石を知行した山本正重(九兵衛・九郎兵衛)は、「山本勘助晴幸入道道鬼」の子孫で、父祖は牧野康成に仕えていたという。 越前松平家の上級家臣であった菅沼家の始祖は、秀康に仕えた山本成本(市左衛門・内蔵頭・対馬守)とされる(3代目の時に藩主の命によって母方の菅沼姓に改める。3代目以降幕末まで1000石)。享保6年(1721年)に藩主の命で「諸士先祖之記」が編纂された際、菅沼家は系図が焼失したために不分明であるものの、山本勘助の子孫であるという三河国牛久保出身の山本成本を始祖とする系図を提出している。越前松平家はこの家伝を承認し、幕府からの問い合わせにも菅沼家が山本勘助の縁者であると回答するに至っている。江戸時代後期の文政13年(1830年)には、成本が勘助の孫と明記する「菅沼家譜」が成立することとなる。 越後長岡藩文書『蒼紫神社文書』などによると、同藩の家老連綿の家柄である山本氏は、山本勘助弟・帯刀(帯刀左衛門)の末裔とする。山本家の名跡を継いだ、大日本帝国海軍軍人として著名な山本五十六連合艦隊司令長官は、山本勘助と同じ家系に連なる人物であるとして各方面で紹介されている。 肥後藩の正史である『綿考輯録』巻四十六」に拠れば、中津の細川三斎に二百石で仕えた下村巳安は、勘助が討ち死にしたときに幼い三男(長男と次男は川中島で討死と誤記)だった下村安笑の子、すなわち山本勘助の孫であったとされる。また、已安の子・傳蔵(巳安)も父と同じく八代で三斎に仕えた(正保年間・二百石)。
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