1715年ジャコバイト蜂起 1715年ジャコバイト蜂起の概要

1715年ジャコバイト蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 21:40 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
1715年ジャコバイト蜂起

ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート、1712年頃。
戦争ジャコバイト蜂起
年月日1715年 - 1716年
場所グレートブリテン王国
結果:ハノーヴァー朝の決定的な勝利
交戦勢力
ジャコバイト
フランス王国
グレートブリテン王国
指導者・指揮官
第23代マー伯爵ジョン・アースキン
ウィリアム・マッキントッシュ・オブ・ボーラム英語版
第2代アーガイル公爵ジョン・キャンベル

背景

1688年から1689年までの名誉革命により、ステュアート朝ローマ・カトリック国王ジェームズ2世および7世フランス王国に逃亡、フランス王ルイ14世の保護下に置かれた。ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫ウィリアム3世は共同統治王として即位した。1690年、長老派教会がスコットランドの国教に定められた。1701年王位継承法はイングランドの王位継承者をプロテスタントのハノーヴァー家に定め、1707年合同法でスコットランドにも適用された。そして、1714年にアン女王が死去すると、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世はジョージ1世としてグレートブリテン王に即位した。ジョージ1世の即位によりホイッグ党優位が揺るぎないものになり、トーリー党は政治権力を全て失った。ホイッグ党政権は1710年から1714年までのトーリー党内閣の財政問題を追及、第一大蔵卿ロバート・ハーレーロンドン塔に投獄され、ボリングブルック子爵は逮捕される前にフランスに亡命した。ボリングブルックは老僭王の国務大臣になり、ジャコバイト貴族英語版ボリングブルック伯爵に叙された。

1715年3月14日、老僭王はローマ教皇クレメンス11世に請願、ジャコバイト蜂起への支援を求めた:「敵の不正行為に圧迫されている敬虔な息子が、破壊に脅かされ迫害されている教会のように、尊敬すべき教皇の保護と助けを求めることはすぎた願いではありません」[2]。8月19日、ボリングブルックは老僭王に手紙を書き、「事の進行が早めすぎて、あなたがトーリー党の長として、イングランドの教会と憲法と守るか、両方とも取り返しがつかないほどに失われるかである」と述べた。老僭王はスコットランドに上陸すればマールバラ公爵が合流するだろうと考え、8月23日にベリック公爵への手紙で「今こそが『今しかない』という時機だと思う」と述べた[3]

反旗を翻すマー伯

第23代マー伯爵ジョン・アースキンは老僭王からの反乱開始の命令を待たずにロンドンからスコットランドに向かい、8月27日にブレイマー英語版で作戦会議を開いた。9月6日、マー伯は支持者600名とともに「ジェームズ8世および3世」の旗を揚げた[4]

これに対し、グレートブリテン議会英語版は1715年人身保護停止法(Habeas Corpus Suspension Act 1715)でヘイビアス・コーパスを停止、さらにジャコバイト領主のテナントが領主を支持しないと表明すれば領主の土地を得るとの法案を議決した。これによりマー伯のテナントの一部がエディンバラに向かって忠誠を証明、自身が住む土地への権利を得た[5]

スコットランドの戦闘

ジャコバイトはスコットランド北部の軍事行動に成功、インヴァネスゴードン城英語版アバディーン、そしてその南のダンディーを次々と落としたが、フォート・ウィリアムは占領できなかった[6]エディンバラ城にはイングランドと連合したときにスコットランドに支払われた10万ポンドと1万人分の武器があり、ドラモンド卿はジャコバイトを80人を連れて夜襲を仕掛けたが、守備軍は襲撃計画を知って守備に成功した。

10月までに、マー伯の軍勢(2万人近く)はフォース湾以北のスコットランドをスターリング城を除いて全て占領したが、マー伯は優柔不断であり、軍勢2千で南下してパースを占領する決定はおそらくマー伯の部下が下したものである。マー伯の優柔不断により、アーガイル公爵率いるハノーヴァー朝の軍勢は増強するための時間を稼げた[4]。例えば、アイルランド駐留軍英語版から増援が派遣されてきた[7]

10月22日、マー伯はようやく老僭王からジャコバイト軍指揮官の任命を受けた。ジャコバイト軍の人数はアーガイル公の3倍であり、マー伯はスターリング城への進軍を決定した。11月13日、両軍はシェリフミュア英語版会戦した英語版。戦闘は決着しなかったが、戦闘の終わりにはジャコバイトの軍勢が4千人、アーガイル公の軍勢が1千人であり、ジャコバイト軍はアーガイル軍を圧迫していたが、マー伯はおそらくすでに勝利したと考えて(アーガイル公は660人を失っており、マー伯の損害の3倍であった)進軍を命じず、パースに撤退した。同日、インヴァネスがハノーヴァー朝の軍勢に降伏(インヴァネス包囲戦英語版)、ウィリアム・マッキントッシュ・オブ・ボーラム英語版率いる小勢のジャコバイト軍はプレストンの戦い英語版で敗北した[4]


  1. ^ 友清理士. “スペイン継承戦争の戦後20年――ユトレヒト条約後の国際関係とハノーヴァー朝下のイギリス――” (日本語). 2018年7月15日閲覧。
  2. ^ Michael, p. 134.
  3. ^ Michael, p. 152.
  4. ^ a b c d Christoph v. Ehrenstein, 'Erskine, John, styled twenty-second or sixth earl of Mar and Jacobite duke of Mar (bap. 1675, d. 1732)', Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004; online edn, Jan 2008, accessed 20 January 2011.
  5. ^ Michael, p. 156.
  6. ^ Michael, p. 158.
  7. ^ Reid, pp. 19-20.
  8. ^ Michael, pp. 163–164.
  9. ^ Michael, p. 164.
  10. ^ Michael, p. 165.
  11. ^ Baynes, pp. 83-104.
  12. ^ Baynes, pp. 105-128.
  13. ^ James Panton, Historical Dictionary of the British Monarchy (2011), p. xxxiv.
  14. ^ Peter Hume Brown英語版, A History of Scotland to the Present Time, p. 154.


「1715年ジャコバイト蜂起」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1715年ジャコバイト蜂起」の関連用語

1715年ジャコバイト蜂起のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1715年ジャコバイト蜂起のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの1715年ジャコバイト蜂起 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS