鈴木保男 鈴木保男の概要

鈴木保男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/06 02:08 UTC 版)

鈴木(高島) 保男
名前
カタカナ スズキ ヤスオ
ラテン文字 SUZUKI Yasuo
基本情報
国籍 日本
生年月日 1913年4月30日
出身地 神奈川県
没年月日 2000年以前
選手情報
ポジション DF
ユース
東京府立第八中学校
193x-1936 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
早稲田大学WMW
代表歴
1934-1936 日本 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

東京府立第八中学校 (現:東京都立小山台高等学校) を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に入部した。堀江忠男立原元夫らが同期に当たり[1]、大学在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した[2]

1936年に大学を卒業した。同年に開催されたベルリンオリンピックサッカー日本代表メンバーに選出され、8月7日のイタリア代表戦に出場した[3]

現役引退後は高島産業で就業する傍ら[4]日本サッカー協会の技術指導委員などを歴任[5]。1959年にムルデカ大会の日本代表のコーチ[6]、1964年にムルデカ大会の日本代表チームの団長を務めた[4]。また、1982年2月にはベルリン五輪日本代表であった金容植が監督を務めるハレルヤFCが来日した時のレセプションに出席した[7]

なお、詳細な没年は不明であるが、2000年8月時点で故人となっている[8]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1934-1936)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1934 1 0 0 0 1 0
1935 0 0 0 0 0 0
1936 1 0 4 0 5 0
通算 2 0 4 0 6 0

関連項目

外部リンク


  1. ^ ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)”. 賀川サッカーライブラリー. 2016年8月1日閲覧。
  2. ^ 第10回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年8月1日閲覧。
  3. ^ (1936.08.07) ベルリン”. 日本サッカー協会. 2016年8月1日閲覧。
  4. ^ a b 「ムルデカサッカー 代表チーム決まる」読売新聞 (1964年8月11日), 2016年8月10日閲覧
  5. ^ 「日韓サッカー第2戦をどう戦うか」読売新聞 (1959年12月17日), 2016年8月10日閲覧
  6. ^ 「代表選手決まる マラヤ独立サッカー」読売新聞 (1959年8月11日), 2016年8月10日閲覧
  7. ^ 「「ハレルヤ」歓迎レセプション 日韓サッカーあすキックオフ」読売新聞 (1982年2月27日), 2016年8月10日閲覧
  8. ^ 「創立75周年記念しリーグ戦 - 府立八中蹴球部・都立小山台高サッカー班」毎日新聞, 2000年8月2日、2016年8月1日閲覧


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