退廃芸術 第一次世界大戦後のドイツ美術

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退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 11:46 UTC 版)

第一次世界大戦後のドイツ美術

フランツ・マルクの代表作『青い馬の塔(Turm der blauen Pferde)』、1913年制作。ヒトラーはこれに関し、「青い馬などいない」と言い放った。1937年に政府によりベルリンのナショナルギャラリーから没収され、以後行方不明
小説家・画家のヨアヒム・リンゲルナッツ(Joachim Ringelnatz)による『Hafenkneipe』(1933年)

ドイツ美術は永らくイタリアフランスの影響下にあったが、19世紀にはカスパー・ダーヴィト・フリードリヒフィリップ・オットー・ルンゲなど、崇高さやドイツの民族主義的テーマを探る独自のロマン主義的動きもあった。19世紀末にはフランス現代美術の影響を受けてミュンヘン分離派(1892年)、ベルリン分離派(1899年)など新しい美術を求める動きが登場した。フランス印象派の影響を受けた画家マックス・リーバーマンはベルリン分離派の主導的な立場にあり当時の社会からも広く認められた。第一次世界大戦前にはブリュッケ青騎士といった前衛芸術グループが登場、表現主義的な絵画はドイツの画壇に衝撃を与える。しかし近代芸術に対する風当たりは強く、1909年には国立絵画館のフーゴー・フォン・チューディが印象派絵画の購入を行ったかどで皇帝ヴィルヘルム2世に解任される事件も起こっている[9]

敗戦後、ヴェルサイユ体制のもとで混乱するドイツ社会では、エミール・ノルデエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーオスカー・ココシュカエルンスト・バルラハヴィルヘルム・レームブルックなど優れた画家・彫刻家が多数活動し、近代美術を集めて展示する公立・私立の美術館が開設されるなど、近代美術に追い風が吹き始めた[10]。また、個人的な表現主義を排して、戦後の享楽的な文化・腐敗した指導層・混乱する大衆社会など、都市や人間を写実的・即物的に描く新即物主義があらわれた。ゲオルク・ショルツジョージ・グロスゲオルク・シュリンプオットー・ディックスなどがこの中に含まれる。またダダイスムがドイツ国内にも波及している。

同じ頃、ヴァイマルにヴァイマル国立バウハウスが設立され、ヴァルター・グロピウスを校長としてリオネル・ファイニンガーラースロー・モホイ=ナジヨハネス・イッテンワシリー・カンディンスキーらが教職についた。芸術と工業を融合させた機能的・合理的な作品制作や、独創的なカリキュラムが組まれるなど、後の世界各国のデザインや芸術に影響を与える重要な学校であった。

近代美術への非難

しかしこうした活発なドイツの美術活動は大きな批判も受けていた。伝統的な美術の範囲から逸脱していることへの反発もさることながら、彼らの中にユダヤ人や東欧人が含まれていることが非難され、またユダヤ人やボルシェビキから支援を受けているドイツ民族の敵であるという非難もあった。表現主義も新即物主義も、どちらもゆがんだ形や色彩で敗戦後ドイツ社会の負の部分をことさら取り上げ、ドイツの社会や軍人や女性を愚弄・嘲弄し、暴力的な色彩や形態で見る者の精神を損なうものだとして批判を受けた。またバウハウスは内部における表現主義と合理主義の路線争いのほか、ドイツ共産党やユダヤ=ボリシェヴィキの手先として右翼からの攻撃を受けたことをきっかけに、1925年にヴァイマルを去り、より進歩的な街だったデッサウに移転を強いられる[11]

デッサウ移転後に建設されたグロピウス設計のバウハウス校舎

そして英雄らしさや軍人らしさなど「ドイツの価値観」にそぐわない芸術のすべて(印象派、表現主義、ダダイスム、合理主義など、ほぼすべての近代美術や近代の音楽・建築など)は、ドイツ文化・社会を堕落させるコミンテルンの陰謀の道具である「文化ボルシェヴィズム」として、右派勢力からの攻撃を受けた[12]。ことにアドルフ・ヒトラーは19世紀半ば以降の芸術を理解せず印象派すら彼の理解を超えており[13]、特に20世紀に入ってからのダダイスムキュビズムを、狂気であり堕落であり病気であると呼んで嫌悪し、これらはボルシェヴィズムの公認芸術である、と著書『我が闘争』で非難した[14]。彼は1910年までのドイツ芸術の水準の高さを賛美する一方でそれ以後に進んだ「退廃」を嘆いており[15]、1925年にスケッチブックに残したメモでは、かつて青年時代のヒトラー自身を窒息させ芸術への道から締め出したはずのアカデミズムを体現するような、19世紀の写実主義的な作家を中心とした「ドイツ国立美術館」の構想を描いている[16]

マクデブルクの戦没者記念像

近代美術が右派や一般市民から非難を浴びた実例には次のようなものがある[17]。彫刻家エルンスト・バルラハは第一次大戦の戦没者記念像を作り、その一つは1920年代末に政権にあった社会民主党により、1929年マクデブルクに設置されたが(現在はマクデブルク大聖堂に安置中)、これは市民から大きな非難を浴びた。この像は簡略化された人物表現を特徴としている。一本の十字架を支えて屹立している3人の兵士、うち両側の二人は防寒着やヘルメットで固い表情を隠し、中央の人物は顔を前に向け毅然と立っているが、その印象は戦友の死を悼んで静かな悲しみが漂っている。十字架の下にはヘルメットをかぶった兵士がいるがすでに白骨化しており、両側には耳を両手で覆って眼をふさぐ父親と、ベールで顔を覆い両手を握り締める母親がうずくまっている。好意的な意見では、高貴さと戦死者に対する哀悼が伝わる精神性の高い彫刻だというものもあったが、市民の多くは猛反発した。「なぜ国のために遠い戦地で英雄的に戦って死んでいった若者がこのように虚ろに見えるのか」「気が重くなる。青少年に悪影響を与える」「ドイツ軍人を愚弄している」 さらに「人物の何人かはゲルマン民族に見えない。程度の低いスラブ・モンゴルの特徴があるのではないか」というようなものもあった。市民やメディアの多くは英雄らしさより大戦の悲惨さを強調した像に対し、自らやドイツ自体が否定されたような印象を受けて像を攻撃した。その手段として、人種的特徴も利用された。バルラハの作品はマクデブルク戦没者記念像やハンブルク市戦没者記念碑など、戦争の記念碑や公共空間に置かれたものが多かったため、特に世論を刺激した。




  1. ^ ニコラス p.16、Barron 1991, p.26
  2. ^ Adam 1992, p. 33
  3. ^ 関楠生 pp..27-30
  4. ^ Adam 1992, pp. 29-32.
  5. ^ ニコラス p.17
  6. ^ Grosshans 1983, p. 9.
  7. ^ 関楠生 p.34
  8. ^ 勅使河原純 pp..48-49
  9. ^ ニコラス p.16
  10. ^ ニコラス p.17
  11. ^ 関楠生 pp..24-25
  12. ^ 関楠生 p.45
  13. ^ 関楠生 p.110
  14. ^ 関楠生 pp..45-46
  15. ^ 1942年3月23日の『食卓談話』より。関楠生 p.110, 勅使河原純 p.54
  16. ^ 勅使河原純 pp..50-53
  17. ^ 関楠生 pp..202-210
  18. ^ 関楠生 p.26
  19. ^ 関楠生 pp..30-33, ニコラス p.18
  20. ^ 関楠生 pp..35-36
  21. ^ ニコラス p.15
  22. ^ 関楠生 pp..36-46
  23. ^ 関楠生 p.34
  24. ^ 関楠生 pp..46-48
  25. ^ 関楠生 pp..48-50
  26. ^ ニコラス pp..18-19、関楠生 pp..62-64
  27. ^ ニコラス pp..20-21
  28. ^ ニコラス p.21
  29. ^ ニコラス p.26, 関楠生 pp..56-62, p.72
  30. ^ 関楠生 pp..75-81
  31. ^ 関楠生 pp..9-11
  32. ^ 関楠生 p.19
  33. ^ 関楠生 pp..38-43
  34. ^ 関楠生 p.16
  35. ^ 関楠生 pp..11-18
  36. ^ 関楠生 pp..19-21
  37. ^ 関楠生 pp..65-70
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  40. ^ 関楠生 pp..75-81
  41. ^ 関楠生 p.81
  42. ^ 関楠生 pp..82-86, ニコラス p.27-29, p.33
  43. ^ 関楠生 p144, 勅使河原純 pp..57-58
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  45. ^ 関楠生 pp..146-149、勅使河原純 pp..60-61
  46. ^ 関楠生 pp..176-179
  47. ^ 関楠生 pp..154-172
  48. ^ 関楠生 p.168
  49. ^ 関楠生 p.165
  50. ^ 関楠生 p.149
  51. ^ 関楠生 pp..151-152
  52. ^ ニコラス p.32
  53. ^ 関楠生 pp..152-154, ニコラス p.32
  54. ^ 関楠生 pp..172-176
  55. ^ 関楠生 pp..179-180
  56. ^ 関楠生 p.181
  57. ^ 関楠生 pp..87-90
  58. ^ 関楠生 pp..90-93
  59. ^ 関楠生 p.103
  60. ^ 関楠生 pp..104-107, ニコラス p.30
  61. ^ 1942年3月23日、『食卓談話』
  62. ^ 関楠生 p.110, p.143
  63. ^ 関楠生 pp..112-115
  64. ^ 関楠生 pp..115-126
  65. ^ 関楠生 pp..49-50
  66. ^ ニコラス pp..22-24
  67. ^ ニコラス p.24, 関楠生 pp..220-225
  68. ^ 関楠生 pp..184-185
  69. ^ 関楠生 pp..185-186、ニコラス p.34
  70. ^ 関楠生 p.186、ニコラス pp..34-35
  71. ^ 関楠生 p.187
  72. ^ 関楠生 p.187、ニコラス p.36
  73. ^ 関楠生 p.189
  74. ^ ニコラス、pp..11-14, 関楠生 pp..189-192
  75. ^ 関楠生 p.192
  76. ^ 関楠生 pp..226-228
  77. ^ 関楠生 pp..228-251
  78. ^ 関楠生 pp..233-234
  79. ^ 関楠生 p.239
  80. ^ 関楠生 pp..237-238
  81. ^ 関楠生 pp..224-250






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