路傍の石 初出と構成

路傍の石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/20 01:28 UTC 版)

初出と構成

  • 路傍の石 - 『朝日新聞』1937年1月1日 - 6月18日(第一部・完)
  • 新篇路傍の石 - 『主婦之友』1938年11月 - 1940年7月(中絶)
    • 同誌1940年8月号に、中絶を判断した事情を山本自ら記した「ペンを折る」を掲載。

新聞連載版は新たな下宿先の娘およねとの恋、その兄との出会い、父との再会などが続き、最終的に吾一が自身で出版事業を始め、それを軌道に乗せるところまで描いて「第一部」が終了した。連載当時の現代(昭和10年代)を舞台にした「第二部」の執筆を告知したものの、連載再開に至らなかった。

『新篇』は新聞連載版を改稿し、物語を最初から仕切り直したものであるが、前述の事情もあり「お月さまは、なぜ落ちないのか」の章で断筆、第一部の終了にも至らず未完に終わった。

現在刊行されている『路傍の石』は、作者曰く最もきりが良いとの理由で「次野先生」の章までで終わっているものが多い。後述の新潮文庫は『新篇』の方を中絶部分までと「ペンを折る」、さらに新聞連載版の続きに当たる章を「付録」として第一部最後まで収録しているが、登場人物の名前や地名など、『新篇』で変えられた固有名詞はそのままになっている。

あらすじ

時は明治時代の中期。尋常小学校6年生の愛川吾一は成績優秀で級長を勤めていた。ある年の正月、子ども仲間の遊びで「度胸自慢」をしあっていた吾一は「勉強ばかりの点取り虫」と見下げられた悔しさに「機関車が走ってる鉄橋にぶら下がって耐えたことがある」と、出来もしない出まかせを言ってしまう。仲間からはやし立てられ「実行」を迫られた吾一は自棄になって本当に鉄橋にぶら下り、鉄道職員に激しく叱責される。事件を受けた担任の教師・次野は吾一を𠮟責した上で、「『吾一』というのはね、我はひとりなり、我はこの世にひとりしかいないという意味だ。たった一度しかない人生をほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」と教え諭すのだった。

折しも街には旧制中学校が新設された。成績優秀な吾一は進学を夢見ていたが、彼の家では没落士族の父・庄吾がろくに働きもせずに家を空け、東京に滞在して山林の所有権をめぐる裁判や自由民権運動に入れあげていた。留守宅では母・おれんが封筒貼りや仕立物の内職でようやく生計を立てている状態であり、経済的な事情から吾一の進学は難しかった。近所の書店・いなば屋の主人で慶應義塾出身の黒川安吉はそんな吾一を見かねて学費援助を申し出るが、おれんと安吉の関係を疑い、士族としてのプライドに固執する庄吾はその申し出をはね付ける。そして吾一には「人の世話になってはいけない。新井白石という人は河村瑞賢からの婿養子の話を断り、大学者になったのだ」と、一方的に説教するのだった。

結局、小学校を卒業した吾一は進学をあきらめ、父親の借金のカタとして街一番の呉服商・伊勢屋に丁稚奉公に出される。主人や番頭と対面するなり、「吾一」の名前が読みにくいからと「五助」に改名させられた吾一は、主人の機嫌を損ねて辛く当たられ、先輩にいじめられ、辛い奉公生活をおくる。伊勢屋の息子は元同級生で劣等生の秋太郎、娘は吾一の初恋の人・おきぬだったが、今では彼を見下げてやはり辛く当たるのだった[1]。劣等生だが金の力で中学校に進学した秋太郎の登下校を、吾一はうらめしげに眺める。そんな中、母・おれんが生活苦の中、心臓発作で急死。母を失ったが、故郷へのしがらみが無くなった彼は東京にいるという父を頼り、伊勢屋から逃亡。上京して父が住むという本郷区根津(朝日新聞連載時は谷中)の下宿屋を訪ねるが、そこで待っていたのは更なる試練だった。根津の下宿屋に父はおらず、吾一は女主人に言葉巧みに丸めこまれて留め置かれた挙句、「小僧」の立場で雑用係としてこき使われる。そのあげく「人質」としての価値が無くなったと判断され、下宿屋を追い出されてしまう。途方にくれていたところで「おともらい稼ぎ」の老婆に拾われるが、その手伝いをしていた矢先に「文選活字拾い職人)見習い募集」の張り紙を見つける。紆余曲折ありながらも吾一は「印刷工」として、念願の文字を扱う仕事につき、再会した次野先生の尽力で夜学に通う道も開け、苦労しながらも一人前の文選工として成長していく。

登場人物

『』内の名前は朝日新聞連載時のもの[2]

  • 愛川吾一

主人公[3]

  • 愛川庄吾
  • 愛川おれん
  • 京造
  • 福野秋太郎
  • おきぬ(福野きぬ)『おぬい』
  • 次野立夫
  • 黒川安吉
  • 志田すみえ
  • 志田かよ子
  • 黒田『熊方』
  • おとむらいのおきよ

「次野先生」以降(新聞連載時の第一部終了まで含む)

  • およね
  • 得次
  • 大明堂(「新編」では文明堂)主人
  • 支配人
  • 藤本
  • 新論社社長

  1. ^ ただし、おきぬと違い、秋太郎の方は、吾一が奉公のため伊勢屋に姿を見せた際には「あ、吾一っちゃんだ」と嬉しそうに言っており、番頭にもう友達ではなくただの奉公人なのだからと「五助」と呼ぶ事を強要されて渋々言う通りにするという経緯があり、その後も「五助」と呼ぶ際には気兼ねしている節があった。また、後に吾一が自分の勉強の相手をする事になった際、女中が自分のために持ってくるお菓子を吾一にも分けてくれたりもした。
  2. ^ 1938年版の映画も同様と思われるが、本項では新潮文庫版の「付録」で明確に確認できる人物のみとした
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。
  4. ^ 路傍の石(1963年版)”. テレビドラマデータベース. 2021年7月27日閲覧。


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