見沼代用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/13 09:15 UTC 版)
水路開削
測量がほぼ終わり、見沼溜井周囲の農業の水需要が減った1727年(享保12年)9月から水路の開削が始まった。工事は水路沿いの村々にそれぞれ割り当てて請け負わせたが、工事に必要な木材や釘は江戸幕府が支給し、また大工や石工、鍛冶などの技能を必要とする人員についても幕府が派遣した。
下中条村の取り入れ口は、長さが約43.6メートル(24間)、幅が約3.6メートル(2間)の木製の樋で作られた。利根川から取り入れられた用水は、新たに建設された水路、見沼新井筋(長さ約2.45キロメートル)をくだり、星川に合流させた。星川内は流路を改修して使用した。星川と代用水は、現在の久喜市菖蒲町で分流し、星川側に十六間堰、代用水側に八間堰がそれぞれ設けられた(詳しくは後述)。
星川と分かれた水路は、新たに開削された幅約6間の水路を南下する。柴山(現在の白岡市)で元荒川と交差するが、元荒川と代用水の高低差があるため、伏越(ふせこし、詳しくは後述)で元荒川を越える。工事当時の元荒川は湾曲した流れになっていたため、元荒川の流路の湾曲を正す工事も行われた。また、元荒川の交差には通船のための、懸渡井(かけとい、詳しくは後述)も作られた。しかしこの懸渡井は1760年(宝暦10年)に水害のため大破し、取り壊された。
さらに大宮台地(蓮田支台)の縁に新設の水路を下り、瓦葺村(現在の上尾市)では綾瀬川と交差するが、ここでは懸渡井で綾瀬川を越える。懸渡井の前後は水位を維持するため盛土を築き、その天端に水路を通している[5]。綾瀬川周囲は、低地湿地となっており、最も難工事であった場所と考えられている[6]。綾瀬川を越えたところで、流路は見沼代用水東縁と見沼代用水西縁の二手に分かれる。しかしこの懸渡井も1961年(昭和36年)に伏越に改められて取り壊され[5]、流路の分流も綾瀬川を越える手前になった。遺構として掛渡井の一部が残されている。
東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(鳩ヶ谷支台)の縁を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した。ここから、旧来の見沼溜井に接続されていた谷古田、舎人などへの農業水路に接続された。
西縁代用水路は、東縁と同様に見沼のあった西側の台地(浦和大宮支台)の縁を沿うように南下し、八丁堤まで達した。ここから旧来の見沼溜井に接続されていた浦和、戸田、笹目などの領地を灌漑する水路へ付け替えられた。
代用水路の開削とともに、見沼溜井の干拓も同時に行われた。まず、芝川の荒川への吐口からの川幅拡張が行われ、八丁堤までの水路が延長された。その後、八丁堤を開いて溜井の水を排出した。後の1731年には荒川からの逆流を防ぐため、芝川吐口逆水樋門が設置された。
これだけの大規模工事にもかかわらず、用水路の完成は着工から約5ヶ月後の1728年2月で、3月には利根川から水を流し込み、用水路の利用が始まっている。建設に関わった作業者は延べ90万人といわれ、江戸幕府の支出した工事費用は賃金が約1万5,000両、工作物が5,000両で総額約2万両に達した。しかし、見沼溜井跡地に新田として1,175町歩(約1,160ヘクタール)が打ち出され、毎年5,000石弱の年貢米が江戸幕府の蔵に納められるようになった(詳しくは後述)。
- ^ 見沼代用水 - 疏水名鑑
- ^ 見沼代用水路 - 独立行政法人 水資源機構
- ^ 第5章 利根川氾濫流の流下と中川流域 (PDF) 122p - 内閣府防災情報
- ^ 見沼代用水 - はすだ観光協会、2019年9月22日閲覧。
- ^ a b c d e f 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』上尾市、1997年3月31日、417-424頁。
- ^ 高崎哲郎 (2009年4月). “連載 水の匠水の司 - 私説・井澤弥惣兵衛為永 - 第十三回 見沼代用水の開発 - 開削決水への道(4) - 竣工(水とともに 2009年4月号 NO.67)” (PDF). 独立行政法人水資源機構. p. 2. 2018年6月5日閲覧。
- ^ 佐藤洋平『日本が誇る世界かんがい施設遺産』東方通信社、2019年11月9日、5頁。ISBN 9784924508286。
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