葫芦島在留日本人大送還
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引揚げの実施
満洲を南下するソ連軍に対してアメリカ軍と中国国民党軍はブリーガー作戦を行い南下を阻止していた。
現在の中華人民共和国政府の主張によれば、中国国民党、中国共産党、アメリカ合衆国の三者による協議の結果、中国東北部の在留日本人を中国国民党が支配していた遼寧省の錦州の南西にある葫芦島(コロ島)から送還すること(ただし、安東と大連の在留日本人は東北民主連軍とソ連軍が送還をおこなう)を1946年1月までに決定した[1]という。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、同年末までに101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された[1]。
引揚げ船は葫芦島と日本を往復した訳ではなく、アメリカ軍は次のような三角輸送の一環として行っている。[13]
中には、ソ満国境から2,000キロも逃げて来た人もいた。日本人難民が主戦場を通過し終わるまで国民党軍と共産党軍(八路軍)の戦いが一時中断するなど、葫芦島においては、虐待に至るケースまで無くほぼ正当に扱われたと伝聞ないし喧伝されているが、帰国支援のため満洲に戻った日本人はスパイ容疑で拷問を受けるなどの目にあっている[14]。帰国を許された人は、辿り着いた順に検閲を受けて乗船し、日本の博多港などに向かった[15]。
- ^ a b c “在留日本人送還60周年(1) 人道主義の記念碑”. 人民網日本語版 (中国網). (2006年6月23日) 2013年12月30日閲覧。
- ^ 『皇弟溥傑の昭和史』, p. 46.
- ^ 半藤一利『ソ連が満洲に侵攻した夏』文藝春秋、1999年、56頁。ISBN 4163555102。全国書誌番号:99114034。、2002年版 ISBN 4167483114
- ^ a b 佐藤量「戦後中国における日本人の引揚げと遣送」『立命館言語文化研究= 立命館言語文化研究』第25巻第1号、立命館大学国際言語文化研究所、2013年10月、155-171頁、CRID 1390853649752718208、doi:10.34382/00002779、hdl:10367/7972、ISSN 0915-7816。
- ^ a b c d 『昭和史の天皇』 6巻、読売新聞社、1969年4月1日、161,293,182,189-195頁。
- ^ 満州電々追憶記集[赤い夕陽]刊行会 編『赤い夕陽』「赤い夕陽」刊行会事務局、1965年。
- ^ 中台恭江「高碕達之助と満州国避難民の抑留・留用、引揚」『東洋英和大学院紀要』第16巻、東洋英和女学院大学大学院、2020年3月、25-42頁、CRID 1050566774754123392、ISSN 13497715。
- ^ a b 丸山邦雄『なぜコロ島を開いたか』永田書房、1970年10月30日、37-51,93頁。
- ^ a b 森川哲郎『満州の暴れ者(もん) 敵中突破五千キロ』(徳間書店, 1972年)P150-151など
- ^ ポール・邦昭・マルヤマ(Maruyama, Paul Kuniaki)、高作自子『満州奇跡の脱出 : 170万同胞を救うべく立ち上がった3人の男たち』柏艪舎, 星雲社 (発売)、2011年。ISBN 9784434160554。全国書誌番号:22037620 。
《原著:Paul K. Maruyama, "Escape from Manchuria" (iUniverse、2009) ISBN 9781450205818 (ハードカバー) & 9781450205795 (ペーパーバック) (英文)》[要ページ番号] - ^ 『皇弟溥傑の昭和史』, p. 75.
- ^ 武蔵正道『死線を越えて : アジアの曙』自由社、2000年。ISBN 4915237257。 NCID BB15093480。
武蔵正道『死線を越えて : アジアの曙』(第6刷増補)自由社、2006年。ISBN 4915237257。 - ^ NHKスペシャル:引き揚げはこうして実現した ~旧満州・葫蘆(ころ) 島への道~(NHK総合テレビ、2008年12月8日(月) 午後10時00分~10時49分)放映
- ^ 『皇弟溥傑の昭和史』, p. 63.
- ^ 『皇弟溥傑の昭和史』, p. 67.
- ^ 『皇弟溥傑の昭和史』, p. 104.
- ^ 特集ドラマ『どこにもない国』
- ^ 番組エピソード 事実は小説より奇なり【実話ドラマ特集】-NHKアーカイブス
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