芹沢博文 筆禍・トラブル

芹沢博文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 11:54 UTC 版)

筆禍・トラブル

歯に衣着せぬ筋の通った発言や、秀逸な文章のエッセイは一般大衆から好評を得ていた。しかしその反面、歳を重ねる毎に棋界の内外で数多くの舌禍・筆禍を巻き起こした将棋史上有数のトラブルメーカーでもあり、大山康晴など同時期の棋界の関係者が度々激怒し、盤外で頭を悩ませていた。

  • 数多いトラブルの中でも特に1982年の『対局全敗宣言』はその最たるものであり、解釈によっては『片八百長の宣言』に取れることから物議を醸している。
    • この全敗宣言は『競争原理が働くはずのプロが、全敗でクラスも落ちず[4]、給料を貰えるのはおかしい』という一種の提言であったが、棋士の中でも賛否両論が出た。
    • 棋士会でも「芹沢を処分すべきではないか」との声が上がったものの、結局お咎め無しに終わった。
    • 一方、C級2組からの降級制度は、この4年後の1986年から復活したことを考慮すると、この件に限れば概ね芹沢の主張に近い結果となっている。
  • 将棋連盟会長であった大山康晴とは、人間的に気が合わなかった。エッセイで度々批判を繰り返す芹沢に激怒した大山が、当時連盟職員だった鈴木宏彦(現観戦記者)に「今すぐ芹沢をここへ連れて来い!」と命じ、鈴木が対処に窮したこともあったという。一方で大山は、芹沢を将棋界に役に立つ人間としては認めていた。
  • クイズダービーへ弟弟子で当時名人だった中原誠が出演した際に、司会の大橋巨泉が「中原君」と何度も呼んだことに対して「年齢が下だとはいえ、将棋界の頂点に立つ人間を『君』付けとはけしからん。物の常識を知らない男だ」と批判。これ以後、著作で巨泉を攻撃するようになった。後に「クイズダービーでは解答者(はらたいら)に答えを教えている」と週刊誌のエッセイに書いており、巨泉を激怒させている。これに対して巨泉は芹沢を名誉毀損で訴えるつもりでいたが、中原や将棋連盟の巨泉への懸命のとりなしで事なきを得ている。
  • 妹弟子蛸島彰子が時代劇『新・必殺仕置人』の『王手無用』の回に女性棋士役でゲスト出演することになったが、一部の撮影が済んだ段になってから芹沢が「女流とはいえ名人、それが〔殺されて〕コモかぶりでは将棋のためにならない」と番組プロデューサーに猛抗議を繰り広げた[5]。この芹沢の介入の結果、蛸島が役から降ろされ[6]、撮影済シーンも全てお蔵入りという事態に至る[7]
  • 上記の様に芹沢の周囲ではトラブルが頻発したため、晩年になるに連れて親しかった棋士やメディア関係者たちにも警戒・躊躇されるようになり、次第に距離を置かれるなどいわゆる「敬して遠ざける」という扱いをされる様になっていった。
    • 上述の『全敗宣言』と前後して、かつて蜜月の間柄だった山口瞳と絶縁する。山口は将棋界との交遊自体を絶つ[8]。山口の連盟(棋士)批判に芹沢が腹を立てたことや、米長邦雄との間で起きたトラブルが主な要因と言われているが、山口と将棋界を繋ぐパイプ役であった芹沢の傲岸不遜さを増すばかりの態度・言動と併せて、それを阻止出来ない将棋関係者の弱腰な姿も山口が将棋界に失望した一因ともいわれている。
    • 1986年の十段戦第二局の打ち上げの席で、立会人板谷四郎が「ちょっと芹沢、最近お前の態度は何だ?他でチャラチャラ稼いだりするから将棋が疎かになるんだよ!」と一喝した[5]。その後は両者共に険悪な雰囲気となり、その場は板谷の子息の板谷進らが何とか収めたものの、その後はもはや周囲に直言をしてくれる人物は誰もいなくなった。

この他にもオフレコレベルで、関係者間の処理によって収拾が付けられたのもあり全真相が定かではなく、後々の棋界の内外で尾鰭が付いて伝わっている様な真偽不明の話も散見される。


  1. ^ 谷川はこの年、10勝2敗でA級に昇級している。
  2. ^ 中原は自分が届かない場所に行き、米長にも抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対出来ない」と競馬の勝負に例えて語っている。
  3. ^ 内藤國雄九段「どういうわけか将棋の好きな大学生は女の子にもてないようである」 - 将棋ペンクラブログ・2013年10月19日
  4. ^ 1982年当時は、C級2組からの降級は無かった。
  5. ^ a b 山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』(講談社アルファ文庫、2002年)
  6. ^ 他の将棋関係者では伊藤宗看役の伊藤果はそのまま出演している。
  7. ^ 本来蛸島が演じる予定だった女性棋士役については、女優の横山リエが急遽これを演じて事が済まされた。
  8. ^ 棋士とのプライベートの交遊を絶っただけであり、1987年に発足した将棋ペンクラブには発足当初から参加し、各賞の選考委員は逝去するまで続けた。
  9. ^ 能智映「棋士の楽しみ/(書く) 碁盤が机がわり」『将棋世界』日本将棋連盟、1983年5月号、115頁。 
  10. ^ 静岡県では芹沢の姓名は相当に多い県である。
  11. ^ これは単なる愛称であり、芹沢は名人位への挑戦歴・獲得歴はない。
  12. ^ 芹沢は1987年12月に逝去したため、初期のみ出演。
  13. ^ ゲームの開発はコアランドが担当した。
  14. ^ 業務用からの移植作品。アーケード版では縦画面構成だったが、家庭用版は横画面構成に変更されている。またクレジット画面・対局終了後の段位判定(家庭用では芹沢八段による段位判定の機能は無い)時に表示される芹沢八段(風)の似顔絵イラストはカットされている。ゲームの操作設定もアーケード版は「1レバー・4ボタン」仕様であったが、家庭用版は「1レバー・2ボタン」仕様に変更した。またアーケード版にあった制限時間・スコア設定も無く、相手を詰むまでゲームオーバーにはならない「フリープレイ設定」となっている。アーケード版のタイトル画面に表示されていた「王将」の文字は無くなり、家庭用は将棋の駒(画面上から王・香・角・飛・金・銀・馬・竜・歩)がタイトル画面に表示される。当時の価格は4300円だった。






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