第二次マラーター戦争
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戦後処理とインド情勢の変化
さて、リチャード・ウェルズリーのベンガル総督解任後、新たに総督に再任したのはチャールズ・コーンウォリスである。彼はウェルズリーのインドの諸侯らに対する攻撃や離反政策がいじめに近く、イギリスの評判を著しく傷つけたことを知り、その威信を回復しようとした[18]。
そのため、1806年1月6日と2月2日にラージガート条約は改訂され、ホールカル家に占領地の大半が返還されることとなり、戦争は事実上引き分けという形に終わった。シンディア家もまたイギリスに割譲した領土の大半を返還された。これはイギリスがデリー、ガンジス、ジャムナーのあたりにその勢力をとどめることを意味し、南に国境を下げることを意味した[18]。
だが、このような返還された地域は瞬く間に無政府状態となり、マラーター戦争の前とは比べものにならないほどの混乱に陥った。混乱が続く中、戦争で職業を失った軍人らがピンダーリーに参加するようになり、その勢力を急速に拡大するようになった[19]。
イギリスはマラーターの領域から撤退したものの、リチャード・ウェルズリーはインドを去る以前に、ムガル帝国の皇帝アクバルがかつて獲得した以上の領土を築いていた[20]。会社はデリー以南の領土、ボンベイ、マドラス、ベンガル、ビハール、マラバール、北サルカールを直接支配し、アワド藩王国、マイソール藩王国、ニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)、トラヴァンコール藩王国、コーチン藩王国などを軍事保護条約によって間接支配する、インド最大の勢力となっていた[20]。
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.277
- ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.195
- ^ a b ガードナー『イギリス東インド会社』、p.196
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.34
- ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.280
- ^ a b c d e チャンドラ『近代インドの歴史』、p.77
- ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.198
- ^ 山本『インド史』、p.178
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.263
- ^ a b ガードナー『イギリス東インド会社』、p.201
- ^ Monson's Retreat India,1804
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.46
- ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.79
- ^ a b ガードナー『イギリス東インド会社』、p.203
- ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.202
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.281-282
- ^ History of the Marathas - R.S. Chaurasia - Google ブックス
- ^ a b ガードナー『イギリス東インド会社』、p.212
- ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.230
- ^ a b ガードナー『イギリス東インド会社』、p.209
- 1 第二次マラーター戦争とは
- 2 第二次マラーター戦争の概要
- 3 戦後処理とインド情勢の変化
- 4 参考文献
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