矢代俊一 矢代俊一の概要

矢代俊一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/03 03:19 UTC 版)

人物像

ソプラノ/アルト・サックス・プレイヤー、フルーティスト。『ジャズ・ジャーナル』誌上での人気投票において、サックス部門、フルート部門で15年連続トップとなり、またCMにも出演するなど、ジャズ・ミュージシャンとしては異例ともいえる極めて高い人気を誇り、《ジャズ界の貴公子》などと呼ばれる。プレイヤーとしての評価も極めて高く、卓越した技巧と類まれなセンスに裏打ちされたそのプレイは、多くの人から天才と評されている。とりわけ、サミー井上(ベース)、結城滉(ピアノ)、森村類(ドラム)と結成した第1期矢代俊一カルテットは、日本ジャズ界のベスト・セレクトであるとの評価を受けた。近年では、作曲家としての活動も活発になり、舞台・ドラマ・CM音楽、ポップス歌手のアルバムなども手掛けるようになった。また、歌手としても活動を始め、なかなかの美声を聴かせている。所属事務所は『ニュー・オリエンタル・グルーヴ』。

風貌は、少女めいた端正な細面の二枚目。長めの明るい栗色の髪、切れ長の二重の目、茶色の瞳。身長174cm、体重約50kg。年齢よりもかなり若く見える風貌と、えくぼのできる笑顔とで、女性からの人気が高い。芸術家らしく非常に繊細な性格だが、音楽のことに関しては熱くなりやすく、相手の見境なくつっかかっていくような強情、頑固で短気なところもある。育ちの良さからか、物や金にあまり執着するところはなく、その外見とあいまってクールな印象を与えるが、実際には極めて人恋しい性格で、おっとりとした、他人を拒めない人の良さを持ち合わせている。

プレイヤーとしては、あまりセンチメンタルなところがない、歯切れがよく理知的なサウンドを特徴としている。また、クールでセンシティヴな雰囲気から、理論派と称されることが多いが、本人の自己評価によれば、極めて感覚的なプレイヤーである。サックスは自分にとっての声である、というように、サックスに対する愛着は極めて強いが、のちにギターシンセサイザーなども演奏するようになり、怪我のためにサックスの演奏ができなかった時期には、全編シンセサイザーのアルバムなども発表している。極めて敏感な耳の持ち主であり、演奏中のプレイヤーの気分の変化などを即座に聞き取ってしまう。どんな曲でも2度聴けば忘れることはないといい、レパートリーは、完璧に演奏できるものなら2千曲、うろ覚えのものまで含めると5千曲にのぼるという。

作曲家としては、デビュー当時は、正統的なオーソドックスなジャズを創出していたが、その作風は年々激しく変化し、これまでにロック調、ゴスペル風、エスニック風のものからフリージャズまで、極めて幅広い作品を世に送り出している。本人によれば、これは常に同じところに留まっていたくない彼の性向のあらわれであるという。

経歴

誕生 - 大学中退

1963年2月8日、東京都港区青山に生まれる[1]

会社社長を務めた父を持ち、かなり裕福な上流家庭の、家政婦付きの広い邸宅で生まれ育った。3歳からピアノとギター、5歳からバイオリンを習っており、それが矢代のミュージシャンへの志向を決定する一因となった。もっとも、ミュージシャンを志した際に、父の猛反対を受けて家を出たために、しばらく親との仲は疎遠になった。だが、ミュージシャンとしての成功を収めてからは和解し、父も彼のアルバムを愛聴するようになったという。

さまざまなトラブルに巻き込まれていることでも知られている矢代だが、そのトラブル体質は幼いころからのものであったらしい。修学院初等部に入学した6歳の時には変質者の若い男に誘拐され、殺されかけたものの無事に解放されるという事件に遭遇している。また、修学院中等部2年だった14歳の時には中年男によるストーカーの被害にあい、半年くらいつきまとわれたあげく、自宅の寝室にまで侵入されるという事件があった。高校1年生の時には、隣のクラスの女子が彼に熱烈に付きまとったあげくに、矢代宛ての遺書を残して自殺未遂をしたこともあったという。

矢代が初めてサックスを手にしたのは、その高校時代のことである。高校の学園祭などで他の生徒たちを熱狂させるなど、たちまち才能を発揮した彼は、その後、一流私大である西北大の文学部に入学。プロを入れても日本で五本の指に入るという名高いビッグバンド、モダンジャズ・ソサエティに入部し、1週間でサックスのレギュラーの座を獲得した。

だが、19歳の夏、誰もジャズになど興味のないところでこそジャズの真髄を究めることができる、という信念から、家を飛び出し、大学も休学して、錦糸町の場末のキャバレー『タヒチ』のバンドマンとなった。その界隈を当時仕切っていた暴力団・小桜組の代貸であった滝川修二との出会いや、ボーイやホステスなどとの交流の中に、さまざまな人々の悲しみと温もりを肌で感じた矢代は、人のありのままの生のありかたを知り、そのことをきっかけとして大きな音楽的な成長を果たすこととなった。だがその頃、激しさを増した小桜組と大政会との抗争に巻き込まれたこともあり、矢代は2ヶ月ほどで『タヒチ』を辞め、その界隈をあとにすることになった。(『キャバレー』)

デビュー - 第1期カルテット時代

『タヒチ』を離れた矢代は、間もなくして大学を中退し、21歳の時、音楽修業のために単身ニューヨークに渡った。22歳の時、ジャズの世界の登竜門である「モントルー・ジャズ・フェスティバル」に飛び入りでセッションに参加し、そのサックスで何万人もの客を総立ちにさせるという伝説を作り、「ジャパニーズ・ミラクル・サックス・ボーイ」と大いに称えられた。

その伝説をひっさげて帰国した矢代は、日本でもネム・ジャズインに参加して、アメリカの超一流プレイヤーたちと激烈なセッションを行い、ジャズ・シーンの大きな話題となった。日本ジャズ界のニュー・ヒーローとなった矢代は、23歳の時に初めてのアルバム『矢代俊一ファースト』を制作した。

その半年後、24歳になった矢代は、ピアニスト・結城滉と出会った。初対面にして素晴らしいセッションを行った2人は意気投合し、それをきっかけとして、当時、日本ジャズ界のベスト・セレクトとの評価を受けた、第1期矢代俊一カルテット(サックス・矢代俊一、ピアノ・結城滉、ベース・サミー井上、ドラム・森村類)が結成された。

26歳の時、清涼飲料水のCMのために作曲した「ワナビー」が、6万枚のヒットとなった。そのCMに出演した矢代自身の容貌も話題を呼び、矢代は一般からも広く人気を集めるようになり、《ジャズ界の貴公子》などと呼ばれるようになった。続いて「ワナビー」をフィーチャーして制作されたアルバム『矢代俊一セカンド』も大ヒットし、「都会的なニュージャズのブーム到来」などとマスコミにも取り上げられるようになり、矢代の音楽的なキャリアはいったんピークを迎えたかに見えた。

だが、『矢代俊一セカンド』制作直後に訪れた結城の事故死が、大きな転機となった。生涯のパートナーと信じて疑わなかった結城の死に、強い衝撃を受けた矢代は、それからしばらく音楽活動を停止した。それに追い打ちをかけるように、海外志向の強かったサミーが英国へ移住し、森村も自らのバンドを結成したため、第1期矢代俊一カルテットは空中分解状態となった。そして、これ以降、矢代は自らの最大のヒット曲である「ワナビー」を長らく封印することとなった。(『流星のサドル』)

第2期カルテット時代

結城の死とバンドの解散を乗り越えることができなかった矢代は、再び日本を離れ、ニューヨークへと渡った。ライブ活動を再開し、2枚のアルバムを発表した27歳の頃から、矢代の音楽性はさまざまな方向へと発展を見せ、オーソドックスなジャズからフリージャズ、ロックからゴスペルまで、同じ人物の作品とは思えないほどにバラエティに富んだ作品を次々と生み出すこととなった。

32歳の時、ニューヨークで知り合い、2枚のアルバムなどで共演したゴスペル・シンガーのテディ・ベイカーと結婚した。当時、テディは重度の麻薬中毒であったため、結婚当初の数ヵ月は、テディの故郷であるボストンでテディの中毒の治療にあたっていた。テディの治療が終了したのち、テディを伴って帰国した。

日本に戻った矢代は、金井恭平のマネージャーであった北原の事務所『ニュー・オリエンタル・グルーヴ』に所属し、間もなくして第2期矢代俊一カルテット(サックス・矢代俊一、ピアノ・高瀬彰、ベース・佐久間将大、ドラム・槙翔一郎)を結成して、日本での活動を再開した。このカルテットでの活動は数年続いたが、高瀬との音楽的な方向性の違いや、佐久間の力量不足などが災いし、第1期と比較すると、その評価はあまり芳しいものではなかった。

だが、矢代自身の評価と人気は相変わらず高く、「水郷ジャズ・フェス」、「森と泉のジャズ・ウィーク」などへの出演をはじめとするライブ活動を精力的に行うかたわら、トレンディドラマの挿入歌の作曲や、往年のアイドル歌手・今西良のアルバムの作曲と演奏などの活動を行っていた。

35歳の時、矢代はプライベートで大きなトラブルに見舞われた。矢代が気付かないうちに、妻のテディの麻薬中毒が再発し、それが原因で麻薬取引のトラブルに巻き込まれたテディが、マフィアに惨殺されるという事件が起こったのだ。それに関連して、矢代もまた台湾系のマフィアに拉致、監禁され、暴行を受けた。その直前に16年ぶりの再会を果たしていた滝川の手により救出されたものの、肋骨骨折など全治6ヶ月の重傷を負い、肺にも損傷を負ったため、サックスの演奏がしばらく不可能になってしまった。さらに、矢代の大学の後輩にあたるベーシストの泉からストーカー行為を受け、退院後初のステージとなった日比谷野外音楽堂でのジャズ・フェスティヴァル(矢代はシンセサイザーのみを演奏し、サックスの代役は金井恭平が務めた)の際に、泉に刃物で襲撃されるという事件も起こった。(『黄昏のローレライ』)

プレイヤーとしてのキャリアは1年ほどの中断を余儀なくされたものの、この間、精力的に作曲活動を行い、シンセサイザーのみで構成されたアルバム『隊商都市』などを発表した。だが、第2期矢代俊一カルテットについては、高瀬が前衛的なジャズを志向する新バンドを結成し、佐久間がアメリカへ音楽修業に出かけたために、解散することとなった。

第3期カルテット時代

第2期カルテット解散後、完全ではないものの、サックスの演奏ができるまでには体調は回復し、36歳の時の「森と湖のジャズフェスティヴァル」をきっかけとして、矢代は再びプレイヤーとしてステージに立つようになった。が、固定したメンバーによる自らのバンドを組むことはなく、その時々の流動的なメンバーによって演奏活動を続けるようになった。また、この頃、CM関係の女性ディレクター・高野にストーカー被害を受けるという事件が起こった。

39歳の時、その2年前に主演ミュージカルの音楽監督を担当した縁で知り合った俳優・竜崎晶の紹介で、名探偵・伊集院大介と出会った。この頃、矢代はある脅迫事件に悩まされており、その解決を伊集院大介に依頼したものであった。この時期、脅迫事件のみならず、それに付随して起こったマネージャー北原の事故や、ローディの少年の殺害事件にも矢代は見舞われたが、それらはすべて伊集院の活躍により解決へと導かれた。また、この事件をきっかけとして、矢代は長きにわたった「ワナビー」の封印を解くに到った。(『身も心も』)

40歳の時に出した12枚目のアルバム『オリエンタル』が芸術選奨を受賞し、続いて発表されたアルバム『ワナビー・アゲイン』とそのタイトル曲がジャンルを超えた大ヒットとなった。その翌年にはアルバム『火の鳥』を発表、チョコレートのCMに起用され、そのCM曲「スイート・セプテンバー」がヒット、全国ツアーも成功させた[1]。その翌年、金井恭平の代役として行った小さなセッションで、ピアニスト・森晃市、ドラマー・勝又英二という、まだ若い2人のミュージシャンと出会った。2人との激しくも複雑な交流を重ねるうちに、やがて矢代は、結城の死によって自らの音楽から失われていたものを、勝又のドラムの中に見出した。同時に、森の中にも、未熟ながらも非凡な才能を見出した。(『YOU DON'T KNOW WHAT LOVE IS』)

42歳の時、竜崎晶主演のミュージカル『ヴァニシング・ローズ』で音楽監督と演奏を担当することになった矢代は、これをきっかけとして、サックス・矢代俊一、ピアノ・森晃市、ベース・小田島ヒロム、ドラム・勝又英二というメンバーで第3期矢代俊一カルテットを発足させる決意をする。だが、当初から小田島の力量や音楽に対する姿勢の違いに他のメンバーが不満を感じていたことや、ミュージカルに出演していた俳優・早瀬充とのトラブルに矢代が巻き込まれて怪我を負ったこともあり、大々的な活動は控えるかたちとなった。

小田島に対するメンバーの不満はまもなく表面化し、ライブハウス「エデン」でのライブの直前に勝又と衝突した小田島が演奏を放棄するという事件が起こった。やむなくベースなしでのリハーサルを開始した矢代だったが、この時、密かにライブハウスを訪れていたサミー井上が飛び入りで参加し、小田島の代役を務めた。ライブは大成功に終わり、これによりサミー井上がカルテットに復帰することになり、第3期矢代俊一カルテット(サックス・矢代俊一、ピアノ・森晃市、ベース・サミー井上、ドラム・勝又英二)が正式に発足した。(『朝日のように爽やかに』)

第3期カルテットは極めて順調なスタートを切り、矢代が初めてボーカルを取ったシングル「Love in Coward/ロンリーピアニスト」がヒットするなど、一般ファン、評論家の双方から高い評価を得た。だが、その一方で矢代は、早瀬充による脅迫に悩まされていた。事件を公にしたり、警察沙汰にすることを望まない矢代の意向もあり、なかなか事件解決の糸口は見いだせなかったが、最終的には埠頭を舞台とした早瀬との直接対決がきっかけとなり、滝川の舎弟であった黒田の介入もあって、事件はようやく解決を見た。(『CRAZY FOR YOU』)

その後も、矢代の精力的な音楽活動は継続されており、ジャズのカバー・アルバム『ブルー・スカイズ』がオリコン1位になるなど、相変わらず高い人気を誇っている[2]


  1. ^ a b c d 同人誌『GIG!』所収の年譜より。
  2. ^ a b 作者の個人同人誌『浪漫之友』第9号付録参照。






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